「ちょっとうち寄ってけよ」
猿野のその誘いに沢松は少し迷いながらも応じた。
親友から恋人へ、二人の関係が変わって数ヶ月・・・キスを求められるならそれに応じる覚悟もしていた。
多少の戸惑いはまだあったけれど猿野に告白されてから何回もしてきたことだ。
それ以上のことなんてまだ考えもしなかった。
夏休みの初日・・・めずらしく部活が一緒に終わり、二人で同じ道を帰った。
部活が終わったのを追いかけるように太陽も一日の活動を終えようとしている。
それに続いて今日という日も平穏無事に終わるはずだった。夏の夜は短いはずだったのに・・・

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乱れ、長方形の形を崩した布団の上に沢松は押し倒されている。
それだけでは済まず制服のズボンはベルトを外されファスナーを下ろされ、後は脱ぐだけ、脱がされるだけという状態。
髪をくくっている部分は枕に沈んでいてかすかな違和感がある。
しかしそれ以上に頭上できつく縛られた手首が痛かった。
外そうともがくたびに縄の代わりの延長コードが皮膚に食い込む。痛みを感じるだけで弛む気配はない。 

夏特有の、湿気を帯びた蒸し暑い空気が夕闇に沈んだ部屋に満ちている。
猿野の部屋の古い扇風機はさっきから空気をかき回すだけで冷房効果は無いに等しい。
じっとしていても汗が噴き出してきそうなのに、激しく争ったせいで汗は止め処なくだらだらと流れている。
猿野によるそれら全ての行為を、沢松は冗談だと信じたかった。
数ヶ月前、猿野に告白され初めてキスされた時も同じ気持ちだった。
沢松には猿野の言う「好き」だという気持ちがよくわからない。
友情の「好き」から愛情の「好き」へ・・・二人の間でそれを劇的に変えるには、長く親友として過ごしすぎた。
それでもその気持ちを伝えてきた猿野の表情は真剣で、沢松は拒絶することなど出来なかった。
一緒にいたいと思う気持ちが大切で、その理由は友情でも愛情でもいいと思った。
猿野もそれに薄々感づいていたのか初めのキス以来性急な態度は見せなかった。
表向きは何もなかったころの二人に戻ったように思えて、沢松はそのことに安堵していた。 

しかしその「気配」を、前から感じてはいたのだ。
表面張力でもってギリギリのところで保たれていたその情動を。
それを受け止める力は自分には無いと解ってた。だから逃げていた。気付かないふりをしていた。
細心の注意を払って距離を置きながら誰よりも近くにいたのに。
あふれ出さないように注意深く観察していたのに・・・
なにがいけなかったのだろう。何が最後の一滴を注いだのだろう?
「ほどけって!天国ぃ!!」
そうしている間に取り返しのつかない状態になってしまった。
今になって自分でも情けなくなるほど必死な声音で沢松は懇願する。
動かせない身体の代わりに心臓が胸を突き破りそうなほど暴れ回っていた。
「いてぇ、んだ・・・よ・・・!」
必死に苦痛を訴えても猿野は取り合ってくれない。
『痛いなら抵抗しなければいい』と、夕闇の中でかすかに光る眼がそう言っている。
「クソッてめ・・・ふざけんな・・・」
拘束からは無理でも、せめてその冷たい眼から逃れたい。
そう思った沢松は唇を噛み、視線を横に逃がした。その先には見慣れた猿野の部屋の壁がある。
何度も訪れた部屋で交わした中身の無い会話。思い出にすらならないような他愛ない日常。
そんな場所で身体に感じる痛みの非現実感。そのギャップにこれは夢だと結論付けそうになる。
しかしこれは紛れもない現実だった。手首の痛みと太腿にのしかかる猿野の重みがそう教えている。

ムリヤリ縛られ脱がされかけているこの状態も充分に信じがたいが、次に猿野が及ぶ行為・・・
その予感が沢松を追い込む。こんな理解不能な猿野は初めてだった。
こんな猿野は知らなかった。キスされたときよりもずっと不可解で不明瞭で、怖かった。
「なぁ・・・なんのつもりだよ天国」
沢松は壁を見たまま震えを押し殺して、カッターシャツのボタンを手早く外し始めた猿野に問うた。
しかしそれに答えは返ってこない。
「やだ、やめろって・・・なぁ!」
募る危機感が、徐々に怒りを恐怖へすり替えていく。
脚をバタつかせ顔を起こし身をよじるが、手首を縛られているうえ下半身は猿野の重みで自由が利かない。
物理的な抵抗はまったく効かず、口での抵抗は抵抗にすらならなかった。
無視を決め込まれては言葉は意味を失い無力なだけだ。
そもそも言葉での抵抗が最初から効いていたなら、互いに汗だくになるまで格闘したりはしなかった。 
それでもどうにか思いとどまってくれるようにと、沢松は猿野の名前を呼び続ける。
やめろ天国、いやだ天国、と。しかしその願いもむなしくボタンを外す猿野の手は一番下まで到達してしまった。
肌蹴たシャツが左右にひろげられ、下着代わりのTシャツがめくり上げられる。
そうしてあらわになった腰のラインを猿野は撫でた。汗のせいで皮膚が吸い付いてくる。
「っ・・・」
くすぐったいのとは少し違う、思わず腰をよじってしまうような感覚に沢松は顔をゆがめた。
そして襲ってくる嫌悪感と絶望。あぁ本当にそういう目的なのか、という。
しかし自分の何がそうさせたのか、目的がわかってもその理由が沢松にはわからない。
「ほせぇ・・・」
眼を伏せた猿野が呟く。それ以上続かない言葉とは逆に手は何度も腰のラインを行ったり来たりした。
上から注がれる猿野の視線は熱っぽく、しかしどこか哀れんでいるようにも見える。
手の動きも視線も、そのすべてが耐えがたくて
沢松は頭上で拘束されている両手を思い切り猿野の頭に振り下ろそうとした。
しかしすぐにその動きを察知され、片手で容易くおさえこまれる。
「っ!・・・ ち、くしょ」
畳の上に押し戻された両手を必死に押し返そうとするけれど、無駄だった。
それならばと左右に力を込めて再度拘束を解こうとするが
猿野はそれすらさせまいと何重にも巻かれた上から掴みかかっている。
その間にも腰を撫で続けていた片方の手は、上へと進み胸を弄り始めた。
「ひあッ・・」
暑くて暑くてしょうがないのに鳥肌が立つ。親指の腹で突起を押しつぶされ、かすかな痛みと刺激が襲ってくる。
沢松は歪ませた顔を二の腕にうずめるように背ける。
猿野はそれをつまらなそうな顔でチラリと見ると、姿勢を低くして胸の突起に舌を這わせた。
「んッ・・・ぅ」
尖らせた舌先でつついたり押しつぶしたりしたかと思えば、軽く吸い付きわざと音を立てる。
「や、あ・・・」
その行為は間違いなく愛撫であったが、感じるのはぬるぬるしたものが自分の上を這い回っているという感触だけ。
そしてその感触が生むのは嫌悪だった。沢松の眉間のしわが深くなる。 
離された猿野の舌先と沢松の胸の間で唾液の糸が伸び、切れた。猿野の唇が今度は鎖骨に寄せられる。
皮膚を吸い上げ、そこには痕を残す。それは付いた、なんて生易しい濃さではない。
刻まれたという言葉がぴったりなくらいの痕だった。猿野は鎖骨から腹にかけて次々と同じような赤い痕を付けていく。
舌や唇を動かすたびに一緒に動く猿野の髪が沢松をくすぐるように撫で、沢松の口から声が洩れる。
「あう・・や、お前、マジで何考えて・・・な、ぁ」
震えを隠し切れなくなった沢松の声は、めくり上げられたTシャツのせいでくぐもった。
猿野には、聞こえているけど届かない。 
沢松に無数の痕を刻み込んだ猿野は満足したのか、上体を起こした。
「賭け、しようぜ。沢松」
「・・・え?」
突拍子のない猿野の言葉に、沢松は腕に埋めて隠していた顔を猿野の方へ戻した。
猿野は人差し指をたった今刻んだ痕に押し付ける。
「この痕」
「っ・・・」
指が、掌が、沢松の胸の上を這い回る。
「5日間、誰にも見つからなかったらオマエの勝ち。見つかったらオレの勝ち」
「なっ、そんな」
冬ならまだしもこの薄着の季節に、こんな目立つ場所に痕を残されてバレない筈が無い。
それに服で隠れる部分にとどまらず、首筋にまでその痕は残されている。
「無理に決まっ・・・」
「でーじょーぶだって!特別出血大サービスで、この猿野天国様がしゃわまちゅくんでも楽勝の裏技教えてあげちゃうー」
猿野は沢松の言葉をさえぎって言った。それは、いつもと変わらないふざけた口調。
「今日から5日間、オレのたん・・・いや」
そこから数段階トーンの落ちた声・・・しかし言葉は最後まで紡がれず、猿野自身の否定で途切れた。
唇は少し開いたまま静止し、やがて
「ずっと、ずっと誰にも会わないでここにいればいいんだ」
そう、言った。

その言葉は沢松の頭に入っていかなかった。意味が、分からなかったのだ。
それどころか目の前の人物が本当に自分の知っている猿野天国なのか疑わしく思える。
いつもの猿野とは全然違う、あまりにも自信なさげで弱々しい声だったから。
目線で『どういうことだ』と問いかける。しかし返事はない。
「誰にも見せるな」
なにを、と沢松は今度は声に出して聞こうとした。けれど
「誰にも」
猿野の呟きが止まらない。
「誰にも見せたくない」
猿野の手が鎖骨付近の赤い痕をひとなでして、そっと沢松の頬を包む。
「あ・・まく、に」
「あーでもこんな痕だけ隠したってだめ、だな。お前の一部だけを隠したって、意味無いもんな」
親指が、震える唇の輪郭をなぞった。そしてその指がピタリと動きを止める。唇から遠ざかっていく。
腰を浮かせた猿野は黙って沢松の上から退いた。開放感と解放への期待から、沢松は息をつく。
「う、わっ!?」
しかし肌蹴た制服は乱暴につかまれた。
襟元を掴み力ずくで引き起こされ、その勢いのまま弛緩した身体を抱きしめられる。
沢松を抱きとめた猿野は眼を閉じ、思わぬ展開に再び強張った沢松の肩に鼻をこすりつけた。
「ずっと、いっしょに」
「あ・・っ、あまく、に?」
まるで親に甘える子どものようだ、と沢松は思った。
そして思わずその背中に腕を回しそうになった自分に驚く。しかし手首の拘束がそれをさせない。

逃げることも、愛することさえできない。

「ずっと、オレだけのお前だ」


陽が沈み、暗くなった六畳間。
幾度も訪れたはずの猿野の部屋を、沢松は今初めて座敷牢のように感じた。