もし時間が一日分巻き戻るのならオレは、全力であいつの前から逃げ出した。


・
・
・


閉め切った窓から西日が差し込んで、部屋は黄金色に染まり始めてた。
好き勝手伸びた四角形の光がカーペットや壁、そして布団に包まり寝込んでいる沢松の上にも這いまわっている。
その出来事のあった週の土日、沢松は寝込んでいた。
土曜日の時点で体の痛みはだいぶ消えていたけれど、まだ動き回る気にも親と話す気にもなれない。
それでも意識を手放して眠ってしまっているうちはまだ良かった。
目が覚めてから部屋に閉じこもり、じっと布団に入っていると思い出してしまう。
腰の奥の痛みではなく、それを作った原因そのものが沢松を苦しめていた。
「・・・シャワーでも浴びるか」
沈む思考を振り払うように布団をはぎ、ひとりごちてベッドをおり部屋を出た。
母親に気付かれないよう、音を立てずに階段をおりて風呂場へ向かう。
シャワーを丹念に浴びて体を拭き、濡れた髪を適当にくくる。
下着を替え、ジャージのズボンとTシャツを着て自分の部屋に戻ると
「おジャマしてまーす」
猿野がいた。


反射的に引いた体が、自分で閉めたドアに思いっきりぶつかった。
ドン、という音の後一瞬遅れて痛みを感じ、そして逃げ場が無いことを思い知らされる。

なんで天国がここに・・・?

ベッドに寄りかかり、床に放ってあった漫画を読んでいる制服姿の猿野は
そんな沢松の様子などお構い無しで、ページをめくることに余念が無い。
かさり、かさりとページをめくる音がかすかに聞こえる。
しかしその、一定だが少し早すぎるペースからは
いつもどおりに見える猿野も緊張していることが伺えた。
沢松の心臓の鼓動もそれに合わせるように早まっていく。
シャワーを浴びたばかりなのに、全身から冷や汗が吹き出てくる。
「1日中引きこもってたんか?汗くせーから窓開けといたぜ」
視線を落としたままの猿野にそう言われて沢松が窓を見やると
カーテンが夕方の風にそよいでいるのが見えた。
隙間なく閉められたカーテンは、部屋のそこかしこに伸びていた歪んだ四角形の光を遮断して
部屋の全ての色彩のトーンを暗くしている。


このまま月曜日になればまたいつもどおりになれると思ってた。
それなのに、この完璧な不意打ち。
「どうした?体調ワリーのか?」
やっと漫画から顔を上げた猿野のその白々しい言葉に沢松は何もいえなかった。
怒りよりも呆れるよりも恐怖が先に立ち声にならない。
この前のことを思い出してしまう。猿野の部屋でのできごとを。
「大丈夫かよ」
猿野の顔を見てごくりとつばを飲み込み、息を吸って吐き
「あ、あぁ・・・風邪、ひいたみたいでさ。まぁ、月曜日には、治る、よ」
やっとのことでそれだけの言葉を搾り出した。
「ふぅん・・・」
とにかく落ち着け、と自分に言い聞かせた沢松は腰の鈍痛をこらえ重い体を動かす。
不自然に見えないように、手が震えないように、ベッドに放ってあった上着を取ろうとする。
しかし緊張に強張ったその手は、俊敏な猿野の手にあっという間に捕らえられた。
その電気が走ったようなショックに沢松が思わず猿野の方を見ると、今度は冷たい視線に射抜かれる。
「あ・・・」
「じゃあなんでそんな怯えてんだよ」
右手で沢松の手をきつく握ったまま、読んでいた漫画を放り
ひざをついてゆっくり、見せ付けるように猿野は立ち上がる。
その動作、瞳の色、手の感触、冷えた空気。
もう忘れたいのに。忘れなきゃいけないのに・・・
「あ、お前・・どうやって入ったんだよ?玄関、鍵が」
沢松はなんとか話をそらそうとした。あえぐ呼吸を必死に抑えて。
「あぁ、部活の帰りに寄ったらさ。おばさんがちょうど出かけるところで・・・入れ違いに」
ベッドの脇に無造作に置かれた部活帰りの荷物を、目線で示しながら猿野は淡々と言う。
「おばさんパートだって。大変だなー」
目線は荷物へ向けられたまま。
「夜まで帰ってこないって」
言い終わると猿野は沢松の方へゆっくりと向き直り、そして笑った。
口の端をつりあげ笑う、嫌な笑い方で。
もっとも猿野がそう言う笑い方をすると沢松が知ったのは、長い付き合いの中でもつい最近だったけど。
いや、そうじゃなくて、最近するようなったのかもしれない。
最近の猿野は、沢松にとって分からないことだらけだった。
「沢松」
「っ・・・!」
不意に名前を呼ばれた沢松は我に返り、きつく握られていた手を反射的に思いっきり振り払った。
しかしドアの方へ向かおうと背をむけてすぐ肩をつかまれ、後ろから抱きすくめられる。
「やっ離せ!離せよ!」
「なんで言わねぇんだよ。オレにムリヤリ犯られて腰立たなくて寝込んでたって」
耳元で囁く声が、冷たい。
「『なかったこと』にしたかったワケ?犯られたことも、好きだって言われたことも」
猿野はそこで言葉を区切り、耳の裏をペロリと舐めた。
「いぁ!」
「無理だよなぁ?こんなに怯えてんだもん」
「あ、天国・・ヤメ」
「もう染み付いてんだろ?」
沢松の体をしっかり拘束していた腕の片方が、ゆっくり探るように下へ動く。
「ひぁ、あ、ぅ」
「体の方はどうかな?」
猿野の右手がジャージの上から股間を掴んだ。
もみしだく手の力は、衣服の上からでも充分すぎる刺激になる。
「うぁ、やだ・・ってあまく、に」

忘れようとすれば教え込まれる。ほどこうとすれば締め付けられる。

逃げられない。

そもそも最初に気付くべきだったのだ。
猿野が窓だけを開けてカーテンを閉めた理由に。


沢松は、自分の鈍さと愚かさを心底呪った。