手に残る残滓を見ても、感じるのは一線を越えたという感慨と目の前の相手が放った熱が冷えて乾いてゆく感触だけだった。


猿野が目線を汚れた手から布団に向けるとちょうど乱れた髪を解き、だるそうに上体を起こそうとする沢松の背中が見える。
身体が重くてたまらないという風に立ち上がると「トイレ借りる」とだけ言い、部屋の出口へ向かう。
猿野の方は一度も見ようとしなかった。
「・・・っ」
しかしあと一歩で部屋を出れる、という所でその動きは止まった。ふすまに伸びた手を猿野が掴んだからだ。
その力は決して強いものではなく、振り払わなくても動かすことは十分にできたけれどそうはしない。できなかった。
闇が押し迫ったほの暗い部屋の中、充分に効かない視力を補って余りあるほどの触覚で猿野を感じた沢松は怖気だち、
捕えるというよりは手を繋いでいるようなその感覚が動きを封じている。

ついさっき、二人の関係を細かく破って捨てようとするかのように
自分の身体を愛撫し続けた、その手。その手が自分が放ったもので汚れている。
「はな、せよ・・・」
それが生み出す嫌悪とその状況を作り出した猿野に対する恐怖、おおよそプラスとは程遠い気持ち。
今まで猿野に対して抱いたことの無い気持ちが沢松の言葉を途切れ途切れにさせているが
猿野はそれを気にする様子もなく、必死でもがくその姿が不思議でたまらないという声で
「なんで?汚いから?お前のだろ」
そう言うと間髪いれず、沢松の腕を思いっきり引っ張った。
肩がはずれるんじゃないかという力におののき、それでも猿野の方へ引き寄せられるくらいなら
この腕なんて千切れてしまえばいいと思ってしまう。
ここまで、コイツのことを嫌悪するなんて・・・と沢松は思ったが
実際には、腕は千切れることなく鎖の役割を果たし沢松は再度乱れた布団の上にうつぶせに倒された。
離された手首に精液がこびりついている。
独特のにおいがかすかに鼻を突き、沢松は顔をしかめると
出来うる限りの怒りをもって猿野を睨みつけた。一糸乱れぬ、制服姿の猿野を。
「今は出るのマズイって。オフクロ帰ってきたみてぇだ」
猿野はそれを受け流し、目線をふすまの方へ向ける。
沢松もそれにならって階下へ耳を澄ましてみると確かに、かすかだが足音やガラス瓶の触れ合う音がする。
母親に見られること、沢松に逃げられることの両方を警戒している猿野はうつぶせの沢松にのしかかり、耳元で囁いた。
「だからよ、あんま騒ぐとヤバイ」
「天国・・・」
そんな猿野にいつもの自分なら、揶揄するようにこう言うだろう。
『騒ぐようなこと、今からすんのか?』と。
でも今その言葉を吐いたら、確実に猿野は行為を続けるために手を伸ばしてくる。だから何も言えなかった。
何も言えず、うつぶせのまま上体を出来る限り首をひねり猿野を見つめ「これ以上」を拒む目を向けるしかない。
「沢松」
自分を呼ぶ声にビクリ、とシーツに絡ませた指が奮える。
「そんな顔すんなよ」
猿野の困ったような目線が少し上からくる。
そして額に落ちた前髪を汚れていないほうの手で撫ぜるようにすくい上げ
阻むものの無くなった、すこし汗ばんだ額にそっと口付けた。
沢松が何か言おうとするのを待たずに両肩をぐいと掴むとそのまま仰向けに反転させ、無防備な姿をさらす沢松を見る。
額から鼻の方へと舌を這わせていき、やがて唇に到達するとそのかすかな隙間から舌先を入れ湿った部分を舐める。
猿野の頭を沢松は両手で引き剥がそうとした。
しかしそれより早く、猿野が沢松の両手を布団に縫い付ける。
そうして抗う術を完璧に奪われ口内を蹂躙されている間も沢松は足をバタつかせることで抵抗の意を表し続けたが
そんなことは猿野にとってはなんの邪魔にもならず歯列を割って侵入させた舌で沢松の舌を絡め取るのをやめない。
いったん離し、伸びた糸が切れる前にまた口付け、
今度は唇を甘噛みし深く舌を入れ吸う。
ぢゅ、と部屋に響き渡るほどの音が立ち、沢松はびくりと肩を震わせた。
燃え尽きようとする花火がバケツの中に放り込まれたようなその音はしかし、
猿野の中の熱まで消してはくれない。
むしろさらに燃えるかのように猿野は沢松の舌を軽く噛んだ。
「ん、ふぅ」
噛まれた部分がしびれるようだった。まるで毒でも打たれたみたいに。
知らず声が漏れ、あごを伝った唾液がシーツにシミを作る。
口の端から出て行かない唾液は、重力にしたがって沢松の咽喉へ下るしかなく
唇を離されたとたんに、許容を超えた沢松は顔を背け咳き込んだ。
背中を丸め自由にされた両手で口元を覆い激しく咳き込む沢松を
猿野はじっと見下ろしている。

「な、んで」
感じる視線があまりに重々しく、沢松は顔を背けたまま上を向くことができない。
本来天井があってしかるべきそこにあるのは見慣れた、
しかし今ではまったく別の、猿野の顔があるのだろうから。
「なん・・・で、こんなっ」
自然に口から出る質問に、沢松の顔の左右に手をつきじっと見下ろしていた猿野の目がかすかに見開かれた。
「また?」
猿野は言う。なんの含みも嗜虐も、皮肉すらない声音で。
その真意を確かめようと、恐る恐る視線を猿野の方へ向けて見ても
やっぱりその表情にはなんの含みも嗜虐も、皮肉すらなかった。
本当に今更、だ。と沢松は思う。さんざん善がって一度イッといてなんだ今更。
なんで、と聞いてどうするつもりだったのだろう。理由を聞けば受け入れられるのか。
受け入れたところで、男の身体で何ができるだろう?
いや、きっとそう考えること自体、間違いなのだ。
一方的なこの行為の果てに残るのはきっと無残な結果だけ。容認なんてできるはずも無い。
でも、一方的なこの行為で達してしまったことも沢松にとってまた逃れようの無い事実だった。
達した後で、引き倒されてまたキスされて・・・
互いにイイのならそれでいい、でも猿野は何も乱れていない。
服装も、心も、呼吸さえも。
オレだけどうして・・・?新たな疑問が沢松の脳裏に浮かぶ。
「なんで、オレだ、け」
かみ合わない会話に少しイラだったように猿野はついていた両手をおさめ、
あぐらの上で指を組んだ。
「なんだよ」
「オレだけ、こんな・・・するのは・・・」
沢松の拒絶を最後に会話が途絶えた。
猿野はその言葉の意味をそこに見出そうとするかのように沢松の半開きの口を眺めている。
浅く震える呼吸が絶えず漏れだすその唇に猿野は突然、何度目かの軽いキスをした。
「『オレだけ』はいやだって?」
「・・・え」
「自分だけイイのが嫌なのかよ?」
どうなんだろう?もうわからない。ただこのままこの一方的な行為が続くのは耐え難い。
「オレも、いいのか?」
とにかく自分だけが乱れるのは、もう嫌だと沢松は思う。
それはとても寂しくて滑稽で孤独な気がした。たとえ好きだと言われていても。
「受け入れてくれるのか?」
泣き笑いのような顔をした猿野に操られるように、沢松は頷いていた。

その顔があまりに嬉しそうで、でも、その嬉しさを消し去ったら後に残るのは悲しみと絶望だけだと
沢松は知らず知らずのうちに察してしまったから。


この行為の果てに残るもの・・・それだけは今は、考えないようにしよう。
沢松はそうして目を閉じた。