最後の1球、それを辰羅川は痺れる手でそっとホームベースの上に置いた。



『打ち上げ始まるから先に行っちゃうよー』と、兎丸たちの声も姿も遠ざかり、ピッチャーマウンドにいた犬飼も
促すような視線をバターボックスに投げかけてから歩き始め、その背中はやがてライトの届かない夕闇に紛れた。
辰羅川は先を歩く3人に犬飼が合流したのをバッターボックスから確認して、猿野と歩き出す。
意図せずとも4対2に別れた。1年生の時にはあり得ない・・・とまではいかないが
とても珍しいことだったけれど、今ではそんな光景が違和感なくある。
犬飼が自然に辰羅川以外の人間と連れ添うことも、辰羅川と猿野が2人並んで歩くことも。

さっきまでの熱気が嘘のように冷え始めていた。本当に最後という、絶対的な終わりが醸し出すさみしさをはらんで。
勝負の行方を示すボールは素知らぬ顔でホームベースの上に転がっている。
次の日、野球部の後輩がそれを拾い上げたところで意味するものを知ることはないだろう。
グラウンドを照らす照明が落ちる時間はもうすぐそこまで迫っていて、それに急かされるように二人は早足で歩いた。
前を歩く四人の背中はもう小さく闇夜にまぎれそうだ。追いつこうとする焦りがしばらく会話の余裕を与えなかったが、
やがて猿野は思い切ったように、でも彼にしては珍しく遠慮がちに辰羅川に話しかけた。
「あのさ、モミー」
それはあまりに無神経に踏み込んでは、きっと聞き出せないという思いがあったからだ。
ゆっくりと、それは二人の歩く速さよりも遅く。
「オレ犬っころの方に集中して、あんま聞いてなかったけど」
「はい?」
なぜか会話のスピードに合わせるように歩く速さもますます遅くなっていった。
途切れ途切れに言葉を紡ぐ猿野を辰羅川は不思議に思う。いつもまっすぐ話し相手を見る猿野の目があさっての方向だ。

「あの方に似てさえいなければ、って何?」

思わず足を止めてしまった辰羅川に合わせるように猿野も立ち止まり、伸びた身長で辰羅川の目を見下ろした。
会話の一番重要なところで目をそらさず見据えられて気後れする。
猿野がたまに見せるそういうギャップ・・・それが辰羅川は実は苦手で、その事実を悟られまいと必死になっていたけれど
猿野はそれを知ってる節があって、たまにそれを利用し、からかったりする。しかし今のこれは無意識だろう。
からかいなど微塵もない目は真剣そのものだったからだ。
「・・・」
「モミー?」
そして真剣な猿野が一番性質が悪い。手に負えないくらい剛直だから。
その剛直さで、いくつもの奇跡を起こしてきたことを辰羅川は知っている。
「私、そんなこと言いました?」
でもその奇跡が自分に及ぶことはない・・・はぐらかそうと、何事もなかったかのように歩きだしたその手は猿野につかまれた。
「言った」
「・・・」
「言ったよ」
「・・・言って、ません」
手に伝わる熱とまっすぐに射る視線に負けそうになったけれど、かろうじて業務連絡のような感情の込められていない声を発する。
そんな堅さが猿野には奇異に映った。そして入部して間もないころの、なにかを守り背負っているようだった辰羅川を思い出す。
1年のころはそれが愛想のない、とっつきにくい印象を与えていて、辰羅川のことをよく知らないうちは
『こいつはこういう人間だ』と猿野は思っていた。
でも今は違う。2年半一緒に部活をしてきて、辰羅川が誰より柔らかく脆く、それでも頑張る人間だと知っている。
大会の前日、誰より緊張していたことだって・・・。
感情の込められていない声は、そんな内面を覆い隠す殻だ。
この期に及んで何を隠す気だよ・・・猿野はそんな態度に怒りよりもさみしさを感じたし、辰羅川が無理をしているような気もした。
辰羅川が今すぐにでも自分にすべてを曝してしまいたいと思っていると思ってしまうのは、ただの勘違いだろうか。
でも絶対オレにはそういう弱いトコ見せないんだろうな、と猿野は思う。
「・・・モミーは変わらねぇな」
諦めの混じった声、離れていく手、辰羅川はそれを惜しいとは思わなかった。
「学年が変わっても髪型が変わっても野球が終わっても、ずっとオレには冷たいよな!明美泣いちゃうゾ!」
まくし立てるように言う猿野を置いて辰羅川は歩み始める。
その背中が見えなくなる前にはぁ、とため息を吐いて猿野も歩みだす。
会話するには不自然な程度に距離が開いて、沈黙を覚悟した猿野は引き止めることはせず、あたりは静まる。
「・・・あなたは変わりましたね」
だからその小さな声はかろうじて聞こえた。喋りかけられることなどまるっきり意識の外だった猿野は、
その声を言葉と認識するまでに少しの間が開く。
一瞬あっけにとられて、その言葉の意味を考えて、思い至ったところで感じたのは驚きだった。
「え・・・あ、そうだろ?カッコよくなっただろ!?ナハハハ」
「BIGになりました」
「そうそう、び・・・は?」
「似てるけど、全然・・・違うと思ってたのに」
猿野の見た辰羅川の表情はそれ以上探るスキを与えない、堅牢な、それでいて底の知れないものだった。
「辰羅川・・・?」
「なんでもありません。さ、早く行きましょう。店の予約の時間に遅れてしまいますし、みんな待っています」
今日は特別に、少しくらい悪ふざけが過ぎても許してあげますから。
笑いながら言う辰羅川に促されて校門の方を見ると、先に行ったとばかり思っていた兎丸たちが立っている。
「もー遅いよー!打ち上げ始まっちゃうじゃん」
「なんだよ、先行っててよかったのに」
「おせぇよバカ猿」
「うっせーコゲ犬!モミーだって一緒だろうが」
「もう・・・最後の最後までケンカしないでくださいっす」
ワイワイと騒ぐ仲間に合流して再び6人になって歩き出したあとも
猿野は辰羅川の背中を見つめていた。無意識に、目で追っていた。


『似てるけど、全然・・・違うと思ってたのに』


そう言ったその表情、瞳は今までで一番猿野の事を優しく映していた。
でもそれはきっとオレを見ていないんだと、そう思うと悲しく、そして悔して頭も働かない。




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「あなたは私と犬飼くんと御柳くんの恩師に似ているんです」



ぼーっとして、足だけ動かしていた、そこにまた突然降ってきた声。
「え?」
「大神さん。あなたも少し知ってるでしょう」
慌てて横を見るといつの間にか隣に辰羅川の横顔がある。
まっすぐ前を・・・犬飼の背中を見据えたまま歩く。
二人の歩く速度の違いでゆっくりと猿野の視線は辰羅川の横顔から斜めの角度、そして後頭部へ巡る。
見えなくなっていく表情・・・自然と猿野の足は止まった。
「それが最初は複雑だったんですよ。私・・・たちにとって」
似ていないと言った犬飼だって猿野に事あるごとに突っかかっていた。それはやはり、心のどこかで
自分の尊敬する人物と猿野が似ていたことが気に食わないと思ったからだろう。
「これでいいですか?」
肩越しに振り返り、困ったように笑ってみせる辰羅川。自分の感情を持て余しているような・・・
それは自分の芯の一部を見せたことに照れているような笑顔で、
猿野はそれを見て、初めて辰羅川という人間の真ん中に触れた気がした。
「・・・なんだよ」
でもすぐにそれは引っ込んで、辰羅川は小走りで犬飼の隣に戻った。
残された猿野は呟く。
「おっせぇよ・・・今更なんなんだよ」
辰羅川の事を解ったつもりでいて、まだ解ってなかったと思い知らされた。
少しでも理解していたと・・・まだまだ知らないところもあるという事実まで分かっているという上で辰羅川の事を理解していると。
そう思っていた猿野は、自分の自惚れに腹が立つ。
「けっきょく辰羅川次第・・・か」
理解していても知らないことは教えられない限り知ることは出来ないと気付かされてしまって、
今日の打ち上げはヤケ酒だ、と心に決める。それもやはり辰羅川に止められることになるのだが。