季節が少しずつ夏へ移り行くのと裏腹に、二人の関係は元に戻ったように見える。 好きだと言われたことなんて夢だったのではないかと思うほどあの、情事の気配はもう跡形も無い。 猿野はますます部活に精を出し増えた友人と共に馬鹿騒ぎをする毎日で、 沢松もそれと一緒に笑い、ふざけて、それなりに楽しんでいる。 毎日が穏やかだった。楽しかった。このまま平穏な日々に飲まれてあの日のことは夢だと思えるような気がした。 けれどそれは出来ない。夢でない証拠が沢松の中にあるから。 からだの関係がなかった頃と同じような日常の中で猿野も昔のように接してくるけれど、昔と同じ気持ちではいられなくて 穏やかな毎日を素直に受け入れない。ふとした拍子に顔を出す寂しさがあった。 猿野が自分以外の人間と笑いあうこと。自分のいない場所で成長すること。 それを我知らず寂しいと思って、しかも嫉妬するようになってしまった。 友達から恋人への一線があるとしたら、二人はそれを越えてしまっていたから・・・ とは言ってもまだその辺りをうろうろしているような段階ではあったが。 沢松は猿野とからだの繋がりを持つことで二人の関係が変わってしまったことは自覚している。それがもう戻らないことも。 でも自分自身の心が変わってしまったことまでは考えが及ばず、だからこの寂しさの原因もよく分からないまま ただ穏やかな日常を過ごすのみだった。 変わってしまった心で変わらない日常に居るのは辛いことだったけれど。 そして次に起こった小さな変化。 猿野はむちゃくちゃに求めたことなど嘘のように突き放すでもなく、 自ら離れるでもなく絶妙な距離で沢松を遠ざけはじめた。 しかも、あくまで沢松を尊重しているようなやりかたで。 別に、沢松が忙しいんならいいよ 沢松も大変だろ?オレだけで大丈夫 お前がそんなこと気にすんなよ そんな語句を並べ立てて沢松の近付く隙を与えない。 授業中も朝練のある日無い日の区別無く堂々と居眠りをしている。 教師に叱られ重いまぶたを開けた後も授業に集中するでもなく頬杖をつきながらぼけっと窓の外を 不機嫌そうに眺めているだけで、隣の沢松と喋って退屈を紛らせることもしなくなった。 かといって沢松の方も煩い隣が静かになったからといって授業に集中することもできず、 不安ばかりがどんどん大きくなっていく。 猿野にその理由を問いただすことも出来なかった。 そんな様子が何日か続いたある日、突然猿野は 「あ、言い忘れてたけど今日からしばらく昼休みに野球部の集まりがあんだよ」 と言う。そして、わりぃな。という風に片手を挙げて見せさっさと教室から出て行ってしまった。 口で謝りながらもそれはまるで悪気の無い様子で、大勢のクラスメイトの中で1人沢松を絶望させた。 悪気も無いほど自然に自分をないがしろにする猿野のことが解らず、猿野の背中を呆然と見送るだけだった。 ※ 「兄ちゃんたちケンカしてるでしょ」 野球部の部室で弁当を頬張りながら兎丸はいきなりそう切り出した。 口の中に食べ物が入ってるとは思えないほど、明瞭な声で。 その言葉は発音だけでなくあまりにハッキリと真実を語っていたから 猿野は聞こえないふりをすることも誤魔化すこともできず、ただ憮然とした様子で 「あん?オレと誰がだよ」 と言うしかなかった。なんでもない風を装ったが、空腹にもかかわらず猿野の箸はぴたりと止まる。 一緒にいた司馬と子津の視線も猿野に集中した。 「兄ちゃんと沢松くんに決まってるでしょ」 余計なことで口を動かしたくない、咀嚼だけさせてよ、といった様子で兎丸はめんどくさそうに言う。 いつもは司馬の分までしゃべるというのに。 「そうなんすか?」 驚き、おにぎりを頬張る手を止めた子津の隣で司馬も心配そうな顔をしている。 「いや、あのな・・・ケンカじゃなくてだな」 いま実行している自分の『策略』は誰にも気づかれていないと思い込んでいた猿野は、 いきなりその話を切り出され盛大にたじろいだ。 その『策略』に利用した後ろめたさのせいで、兎丸の鋭い視線よりも何も知らない子津と司馬の心配そうな視線が痛い。 「確かに一緒にメシ食おうぜーってメールもらったときはビックリしたっすけど」 「なんだよー部活の仲間とメシ食うのがそんな不自然?ひどい!明美だけ仲間はずれ!!!」 「ケンカじゃないってことは・・・そういうプレイなの?」 明美を無視して兎丸は猿野に話しかけた。猿野は明美モードを解いて素で引きつった笑いを浮かべる。 猿野と沢松の関係は周囲にはバレないように努めているはずなのに、そのセリフは 二人の関係はもちろん、猿野の思惑までも見通していなければ出ないものだったから。 一方、猿野の思惑も兎丸の意図も分からない司馬と子津は互いに顔を見合わせ、間を取り繕うように食事を再開した。 「ラブラブだねー」 そして猿野を見ようともせず棒読みで言ってご飯を頬張る兎丸。 「・・・ラブラブなのよ」 と、かろうじて答えたものの、背中に冷たいものが走った猿野。 子津と司馬は眼前で交わされている会話の意味が分からず、かと言って詳しい説明を求めるほど無神経でもなく ただモグモグと口を動かすだけだ。 「沢松くんさ」 兎丸の箸は猿野の弁当箱に伸び、から揚げを一つさらって口へ運ぶ。 「逆に離れてっちゃえばいいのに」 「はっ・・・」 猿野は仕返しにと手をプチトマトへと伸ばし、ヘタをとって口に放った。 「それはない」 「言い切るし・・・ムカつくなぁ」 「まぁお前らはそんな必要もないし、オレにとっちゃ羨ましいけど?」 猿野はそこでチラッと司馬の方を見た。いきなり会話の矛先が自分へ向いた事を察した司馬が 縋るように兎丸を見ると、兎丸はその視線を受け止めて「ま、ボクらはね」と笑う。 そこで司馬もようやく納得したらしく、顔を赤くした。 「でもさ、もっと優しくしてあげれば。傷つけたいわけじゃないんでしょ?」 「傷ついてるように見えるか?」 「・・・少なくとも」 そこで兎丸は箸を咥えたままつい、と中空を見えげ、しばし思案して 「弱ってるようには見えるね」 そう言った。 それは咎めるような言い方だったのだが猿野は反省するどころか心の中で笑う。 兎丸と沢松は他人ではないがそんなに親しい間柄でもなく、部活の時に互いに顔を合わせるだけで 会話を交わすこともあまり無い(あくまで猿野の把握している中で、だが) しかも沢松はマイナスの感情をあまり表に出すほうではなかった。それにもかかわらず、兎丸が沢松の変化に気付いている。 兎丸が鋭いということももちろんあるが、それほどに沢松は猿野に影響されているということだ。 猿野の思惑通りに。 「・・・今日部活サボるわ」 「え!?なんでっすか駄目っすよ!」 突然の猿野の言葉に子津は慌てた。今までの会話の中でどうしてそんな結論になるのか分からない。 しかし猿野の中で、その理由は明らかだった。 『準備は整ったから』 それを知る兎丸はかき回すだけかき回して我関せずの姿勢に転じ、モグモグと口を動かしている。 それどころか、なんとかしようとする司馬の介入をも封じるように「はい、あーん」と笑顔で卵焼きを差し出した。 「そんな、いきなりサボるなんて」 「じゃあ沢松にサボっていいか聞いてみるよ」 完全に2分割された空気の中で、子津の悲痛な声が響く。 「いや意味わかんないっすよ!それに沢松くんだってサボっちゃ駄目って言うに決まってるっす」 「子津くん」 そんな子津を哀れに思ったのか、兎丸はため息をつきながら諭すような口調で言った。 「今の沢松くんなら言うよ、きっと。サボれって」 「猿野くん達ケンカしてるのにっすか?」 「ケンカしてるからっていうか、あー・・・うんゴメン。ぼくの最初の言い方が悪かったね」 「えぇ・・・?もうホントにワケわかんないんすけど」 「いいんだよ解んなくて。子津くんはずぅっとそのままでいてね」 「そうそう!ネズッチューはピュアじゃないとな」 「もぉ・・・なんすかそれ」 司馬までがこくこく、と頷くのを見て子津はがっくりと肩を落とした。 猿野が部室から教室に戻ると沢松は食事をとうに終えたらしく自分の机でケータイをいじっていた。 猿野は何事もなかったかのように隣の自分の席に向かう。 わりーわりー、と軽く片手をあげて椅子を引いてる間に沢松もケータイを仕舞い、おう、と返事をした。 沢松の机には早々に次の授業の教科書がそろえてあって、 それが沢松が一人手持ち無沙汰な昼休みを過ごした証拠のように見えたがそんなことは言及しない。 猿野にとって沢松が一人で食事をしようと他のクラスメートと食事をしようと、その違いは重要ではなかったから。 『沢松が自分と一緒にいない』 その条件さえ満たしていればそれでよかったのだ。それに苛立ちと寂しさを感じてくれれば、もっといい。 「今日さ」 ぽつり、と猫の前にボールを転がすみたいに猿野はつぶやいた。 反応を見るための猿野のその言葉に沢松は顔をあげ、何、とも言わず目で続きを促した。その目に浮かんでいるのは 不安、そしてもう何度裏切られても消せない期待。 今日さ― 最近はその続きに沢松を傷つけ遠ざける言葉ばかり当てはめてきた。 最初のうちはなんとも思ってないようだった沢松もそれが続くにつれ、隠しきれない不安がにじみ始めていた。 それが猿野には堪らない。オレがいないとさみしいんだ。沢松は、オレがいないと駄目なんだ・・・そう思えたから。 でもそうさせた原因はお前なんだから沢松。今まではオレばかり求めてるみたいで不安だったんだ。 「この後、久しぶりにお前んち行きたいんだけど、ダメか?」 ほとんど形だけの確認だった。駄目なわけない。 案の定、沢松は「別にいいよ、来いよ」と答えた。 しかし「部活はどうすんだよ」と聞かれないことが猿野には少し意外で、 それだけに自分の策略が期待以上の効果を上げていることを知る。 そう考えると、来いと言った沢松の物足りないくらいの無表情も、きっと必死にいろんな感情を押し込めているのだろうと思えてくる。 どうしてやろう、と思った。どうなるのだろう、とも思った。 とりあえず、なんでもない風を装う無表情の下にあるもの全てを、暴き出してやるつもりだ。