せめてその音が部屋に痛々しく響けば猿野もこの先に進むのを躊躇ったかもしれない。
しかし身体と畳のぶつかった時に発生したのはとても小さく鈍く
音にも満たないような空気の揺れで、猿野を止めるには至らなった。
必要以上の力で引き倒された沢松は、その衝撃を全部背中で受け止めて言葉にならない声を漏らす。
漏れた声は小さく吐き出した息もわずかなものだったけれど、酸素を足りなく感じるほどに息が詰まった。
そんな、言葉よりも雄弁に語る苦しげな表情と肌蹴た制服の襟元から覗く肌の白さが暴走した猿野の理性を少しだけ呼び戻す。
「あま、くに・・」
絶妙のタイミングで聞こえてきたのは震え、かすれた声。
そうやって戻された理性と少しだけ弱った欲望がせめぎ出して、自分でその状況をつくり上げたくせに
猿野は自分の下の沢松を見ていられなくなり顔を背けた。沢松のカッターシャツを握っていた手の力は抜けて、唇を噛む。
これ以上その肌を見ていたら本当に理性など飛んで、沢松を傷つけてでも自分の欲望を押し通してしまいそうな気がしたから。
一度は傷つけてもいいと思ったのに、怖くなった。だってあまりに沢松がおびえるから。本当に沢松が離れて行ってしまう気がしたから。
今初めてそう感じた。もしかして取り返しの付かないことをしてしまったんじゃないか、と。

早く隠さなければ。今なら引き返せる。

そう思って猿野が手を伸ばす。肌蹴たカッターシャツの前を合わせるため・・・しかし沢松はビクリと身体を固くし、
顔の前で手を交差させ顔を隠した。
この状況で・・・押し倒されている状態の沢松にはその手がさらにカッターシャツを引き裂くとしか思えなかったから。
それでも沢松の両手は迫る猿野の手を引き剥がすことなく顔を覆っているだけで他の抵抗はない。
しかしその態度、表情、全身で拒絶を表している。

自分の発する呼吸音を別にして猿野の耳に届くのは嗚咽と、は、は、と繰り返される沢松の浅い呼吸だけ。
顔を覆っている両手を掴んで乱暴に畳に押さえつけ濡れた瞳を覗き込めば、それはぼうっと視点も定まらず猿野を映していた。
晒された胸は息を吸うたびに動いているように見えて、実際はしゃくりあげるたびに上下する肩の方に連動している。
それを見下ろしていると、自分の奥の方がすっと冷えていくのを感じた。握っている沢松の手も冷たい。
「・・・するわけないだろ」
かすかに震えているその手が自分を抱きしめるとか・・・そんな傲慢なことは望んでいないけど、
もう一度殴ってくれるとは、思っていたのに・・・全てを拒絶して自分の身を守ろうとした沢松に、猿野は傷ついた。
それが自分勝手な思いだと充分に知ったうえで、それでも傷ついてしまった。受け入れて欲しいと願っていたからじゃない。
受け入れてくれると信じていたから。
「殴られた仕返しだっつーの」
「・・・天国」
「騙されて、ばっかじゃねーの!」
沢松の上から退いて言う猿野の笑顔は歪んでいて、クラスメイトの前の沢松ほど上手に自分の内面を誤魔化せてはなかった。
開放された沢松はそれを暴くどころか見ないようにそっと起き上がって、肌蹴たシャツの前をあわせるが
すでにボタンは千切れていて手が離れたとたんはらりとカッターシャツはまた前が肌蹴てしまって結局何も変わらない。
決定的に変わってしまったものもあるのに。
「だって知らない」
うな垂れた沢松がつぶやいた。
「オレは、そんなお前を知らない」
ぎゅっと、ボタンの飛び散ったカッターシャツを握る。行為の痕を、劣情の証を、隠すために。
だけどそれは胸元にいびつにシワを作っただけだった。
「オレの知ってる天国って、凪ちゃんのことが大好きな馬鹿野郎だよ」
「・・・」
「なんでオレだ・・・なんで」
「・・・」
猿野は何も答えなかった。

『凪さんにこんなことできるわけないから』

『お前のことが好きだから』

どっちの理由も真実として同じくらいの大きさで猿野の内に存在しているけれど、その両方を伝えることはアンフェアだったし
片方を伝えることは嘘をつく事と同じだったから。
どちらも言わずにそっと抱きしめると、沢松はうなだれていた顔を上げ、かすかに目を見開いた。
思わぬ暖かさと心の痛みに驚いたような顔・・・それは猿野を責めているようでもある。
やがて遅れて襲ってきた苦痛を噛み締めるように眉根をひそめ
「天国・・・お前は、オレにお前の全てを知って、その全てを受け入れろっていうのか」
そう言う。猿野はそうだよとは言わなかった。言わなくてもその本音は淀みなく伝わっていると思ったから。
きっと2つの理由も・・・せめて2番目の理由にだけ気付いて欲しいと思うけど、それは無いんだと思う。
自分の全部を知ってる沢松だから。
「ふざけんなよ」
言葉の意味と響きのもつ乱暴さとは裏腹に怒りは孕んでいなかった。声に力はなく寂しそうだった。
猿野が制服の裾から素肌に触れても僅かな抵抗もない。
「んっ・・・」
腰に添えた手を滑らせると、くすぐったさで沢松の口から声が漏れる。
必要最低限しか付いていない肉の内側に骨の硬さを感じる。手を上に移動させながら肋骨の一本一本、骨の隙間を指先で確かめると、
汗ばんだ肌が掌に吸い付いて、それでも感触は意外と滑らかで・・・猿野は脇の下から骨盤まで夢中で撫で回した。
腰のくびれなんてあるはずもなく絶壁だし、自分より少し色が白くて細いだけの男の身体になにを夢中になっているのか
自分でも不思議だったが、猿野の手の動きは止まらなかった。
「あ・・・あまくにっ」
『いい加減にしろ』なのか『やっぱり無理だ』なのかは分からないが、沢松が出ない声の代わりに髪を引っ張る。
そこで猿野は気づいた

沢松だからだ、と。  

ずっと触れてみたいと思っていたその願いが今叶っているのだから。その上、想像とまったく違う部分にどんどん気付かされるから。
制服の下の肌は思ったより滑らかだったし、こんな骨の感触なんて思いもよらなかったし、何よりリアルな温かさが心地よくて・・・
だから髪を引っ張られ無理矢理に顔を引き剥がされて触れる事を止めさせられて感じたのは、
名残惜しささえ押し流してしまうほど大きな苛立ちだった。
沢松の拒絶が罵声に変わる間を与えず、その苛立ちにまかせて猿野は沢松の腕を思いっきり引っ張る。
自分の身体に倒れこんできたのをいったん抱きしめるように受け止め、勢いを殺さないままくるりと身体の位置を入れ替えて床に押し倒す。
投げ出された腕を手首のところで押さえつけられて沢松の半信半疑だった身の危険が確信に変わったが、
それでもまだ表情に表れているのは怯えというよりは信じられないという気持ちだった。
「っ・・・やめ」
「いまさら、止めれるかよ」
猿野のその言葉は何かに追い立てられているとしか思えない。その何かとは、苛立ちと焦りだろう。

ズボンの隙間から侵入してくる手はよく知っている手、目の前にある顔も誰よりも知っているはずの顔だったけれど
沢松には理解できない。ゆっくりと、でも確実に最悪の方向へ進んでいく猿野のことが。
「天国、本当に・・・っ、これ以上・・は、シャレに、なんない・・!」
肩を押し上げても覆いかぶさる猿野の身体は離れていかない。
シャレじゃねぇんだよ、そう言う猿野の掌が自分の中心を包み下着の中で不自由に動き回るのを感じる。
そして貧血に似た気分の悪さ、冷や汗がじわりと背中を濡らしていた。
「オレ天国のこと・・・すきだけ、ど、こんな意味じゃ、ないん・・・だ」
そう言う間にも、必死に猿野の身体を押し離そうとする沢松だったけれど、力の差と体勢の優劣でそれも叶わなかった。
それでもその必死な訴えを聞いた猿野の手が、ぴたりと止まる。しかしそれは抵抗を受け入れたわけではなかった。
沢松が安堵し、硬く結んでいた唇を緩め息を吐こうとしたのを見計らって
「それなら」
「ひっ!」
先端に軽く爪を立てる。猿野の下で沢松の腰が浮いた。
「いっくらこんなことしても、勃たないよな」
「・・・ッ、バカヤロ、んアッ」
羞恥と怒り、そしていきなりの刺激で沢松の顔がゆがむ。
人差し指の先で先端をぐり、と押さえつけれられると、敏感な部分への痛みと刺激で反射的に声が漏れ身体がはねる。足は床を蹴るように動く。
それを押さえつけるようにのしかかる猿野の手は沢松を追い詰めるためにだけ動いていた。
手のひら全体を擦りつけるようにしごけばビクビクと、触れている部分だけでなく身体全体で反応を返してくる。
口から漏れるのは鳴き声のようにも泣き声のようにも聞こえた。
「・・・」
手を動かしながらそんな様子を見る猿野はもう、何かを言って沢松を追い詰めることなんて忘れていた。
もし沢松が不快さだけを露わにしてめちゃくちゃに抵抗すればこんな気持ちにはならなかっただろう。
でもその口から発せられるのは罵倒ではなく苦しげな息使いだ。悲しみと苦しさと怒りしかない・・・頭ではそう解っているのに
それを切な気と感じてしまう、そして眉をひそめる、泣きだす寸前のような顔を気持よさそうだと思ってしまう自分を、猿野は恨んだ。

このままじゃ、最後まで・・・

でも。でも。でも・・・猿野は何かに言い訳の代わりに手を上下に動かし続ける。
沢松が本気で嫌がればすぐに止めるつもりだったんだ、と。しかし最初、抵抗した沢松を押さえつけたのも他ならぬ猿野自身だった。
こうなることを望んでいた。そして同じくらいの気持ちでこうなることを拒絶していた。
「なぁ、沢松、オレは」
「・・っ・・?」
そんな矛盾だらけのなかで確かに言えることは。

「お前がすきで、お前と、一緒にいたいんだ」

もはや顔をまともに見れなくて、それでも視線の端で沢松のハッとしたような表情を捉えた。
そして呻くように言う。むりだよ。もう、むりだ・・・
かんがえるちからを根こそぎ奪うような・・・しかし不幸だったのは、それが体を動かす気力までは奪わなかったことだ。
















       










沢松の表情が何を意味するのかも分からないまま、猿野は濡れた手の中に溢れた熱で唐突に終わりを知った。
行為の始まりの段階、そして・・・