突然に「る」とも「ふ」ともつかない音で鼻歌を歌い始めた猿野を
辰羅川はいぶかしげな視線で見つめた。
その視線はある程度の鋭さで猿野へと突き刺さったはずなのに
猿野はなんのダメージも感じていないかのような表情で窓の外を見、まだメロディを奏でている。
委員会の仕事で一人教室に残っていた辰羅川の元に、猿野がやってきたのは30分前。
それまで猿野は辰羅川の前の机に腰掛け、椅子に足を置き、
何をするかと思えば窓の外をぼんやり眺めているだけだった。
せっせと書き物をする辰羅川の頭頂部を見ては時々思い出したように、
椅子に乗せた足を屈伸して椅子の足と床の間に危うい角度をつくる。
そんな猿野を辰羅川は空気と、あるいは教室の中のストーブと同じと見なした。
部屋を暖めないスイッチの切れたストーブだ。
そんな態度に焦れたのか、猿野がとった行動が鼻歌である。
空気の抜ける音にメロディが与えられ、かろうじて音楽となっただけのような歌。
「・・・用が無いなら出ていってもらえますか」
スイッチの切れたストーブは邪魔にならないが、雑音は邪魔になるから
辰羅川は始めて猿野へ言葉を放った。
自分から声をかけるという行為こそ猿野の策略どおりだということには
気付かない振りをする。シャクだからだ。


声をかけられても猿野は相変わらず窓の外を眺めながら鼻歌を歌っている。
その表情はどこか物憂げだった。
「猿野くん」
いくら言っても聞きはしない。しっかり聞こえて、話しかけられるのをずっと待っていたくせに。
猿野の靴の裏とともに近づいたり遠ざかったりを繰り返していた椅子の背もたれが
辰羅川の机にコツンと当たった、と思ったら椅子の足と床の間のバランスは限界を超え
教室に満ちた冷たい空気を盛大に震わせ、倒れる。
猿野は宙ぶらりんになった足を床の少し上でぶらぶらと揺らしながら
「モミー、マジックもってる?」
と、倒れた椅子にはまるで頓着せず辰羅川に言った。
辰羅川は怒りよりも呆れの気持ちによるため息をひとつ吐き
「・・・ペンケースに入ってます」
と応えてやる。
「貸して」
ペンケースを数センチ猿野の方へズラすことで了解の意思を示した辰羅川にサンキュ、と言って
猿野はシンプルなペンケースからマジックを取り出した。
なんだ水性かーまいっかーと独り言を言いながら、すぽっと小気味いい音を立ててふたを取り
今度は顔だけでなく体も窓の方へ向けて、おもむろにぐりぐりと窓ガラスに黒い丸を書き出す。
「何をしてるんですか!」
辰羅川の抗議の声が教室に響いた。
猿野の奇行はこれまで幾度となく目にしてきたが、今までのそれとは明らかに種類が違っていて
辰羅川を余計に戸惑わせる。そうしている間にも黒い丸は増えていった。
「猿野君!?」
「ホラ見てみろよ」
「何を」
「こっちから見ればわかるって」
呆気にとられ、猿野の奇行を体を動かして制止することすら失念していた辰羅川が
椅子を引き、自分も猿野の視線を見るべく隣に並んだ。
肩をぎゅっと抱き寄せた猿野の手を振り払おうとしたとき
「あ・・・」
「な?」
視線を共にする二人の見る方向に、広がる青空に張られた電線。
その一本一本の間には猿野によって配置された黒い丸。

空は紙に電線は五線に黒丸は音符に

空の五線紙

「      」
猿野が口ずさんだメロディは会話よりも柔らかく、椅子の倒れた音よりも自然に
教室の冷たい空気に溶けていった。

その歌よりも空の楽譜にすべての感覚を奪われていた辰羅川の
視界に写っていた青い楽譜の半分が、黒に覆われたのは突然のこと。
顔に当たる硬い学ランの感触。黒と、メガネがずれたせいでぼやけた空が半分ずつの視界。
「辰羅川 辰羅川」
猿野の歌はいつのまにか止んでいて、ただ辰羅川の名前を繰り返すだけになっていた。
空に奪われていた感覚が徐々に回復し始める。
触覚・視覚・聴覚・・・
「辰羅川」
しつこいくらいに清らかにつむがれる自分の名前、
鼓膜の震えがそのままダイレクトに脳に響くように、それは聞こえてくる。
それほどまでに二人の距離は近かった。
締め付けられているのは、体なのか心なのか・・・多分両方だっただろう。


しばらくの膠着状態の後、黒の視界を振り払い窓へ向き直った辰羅川が
袖で音符を拭うと、それはいとも簡単に消えた。
だから油性がよかったのに・・・と呟く猿野と散らかった机の上はそのままに
カバンだけを持って、辰羅川は教室を出て行った。
猿野の口から発せられた言葉も歌も、その全てが悲しみを帯びていたことに気付かないように
無駄に乱暴に閉めた教室のドアの音で遮断した。




次の朝登校すると、机の上や倒れていた椅子が綺麗に整頓されていて
それは辰羅川の心を余計にかき乱した。

辰羅川は窓の外を見ない。
自分が消したマジックの黒は今もほんの少しだけ透明な窓ガラスに残っていて
外を見るとそれが嫌でも眼に入ってしまうから
もうそれは、染みついてとれない。空にも心にも。
何度も思い出して、思い出したくも無いそれはより強固な記憶になっていく。
ひょっとしたらそれは猿野の巧妙な作戦だったのかも知れない・・・と辰羅川は思う。

猿野君  私はあなたを好きになったりはしない。
いくら何をしようとも。





あの日猿野が空に描いたのが、ラブソングではなく失恋ソングだったことを
辰羅川は知らない。