購買の喧騒も落ち着き、各々が弁当を拡げ食欲を満たしているであろう時間帯。
午睡を誘うほどうららかな日差しの中、人気の無い校舎裏を歩く男子生徒が二人いた。

沢松と犬飼



犬飼の右手にはストローの刺さったコーヒー牛乳が握られ、左手は沢松の右手に捕まっている。
力で負けるはずないのに、犬飼は上半身が硬直してしまってその手を振り払えず
腕2本分の距離の先で後ろ髪が揺れているのを見ながら、沢松の後をもつれ気味の足で追う。
誰かが二人のその様子を見たのなら、聞き分けのない飼い犬に引きずられる飼い主を連想したことだろう。
そしてその誰かがもし親衛隊の女子生徒だったとしたら
男子生徒に手を引かれる犬飼のその姿は即倒モノだっただろう。
しかし幸いなことに二人の姿を見咎める者は誰もいなかった。
みんな自分のことに夢中だったのだ。食事、お喋り、バカ騒ぎ、二人きりになること、状況を理解すること・・・



沢松は犬飼を、グラウンドからも校舎からも少し離れた報道部の部室へ半ばムリヤリ連れ込んで
やっとリードの役割をしていた手を離した。そして慣れた様子でドアの内鍵を閉める。
扉を閉めても昼の部室は明るかった。
仕組みも機能も役割すら分からない機材、陽光に照らされて舞う埃・・・
野球部の部室の汗臭さとはまったく違う、現像液のツンとすっぱい臭いがほのかに鼻を突く。
犬飼にとって機械の溢れるこの場所はまるで別世界だった。
「・・・なんのつもりだ」
沢松はその問いかけに返事もせず、それどころか犬飼の自発的な行動全てを拒むように
無言で部室の奥へと進み、置いてある長椅子に腰掛けるや否や唐突に話し始めた。
「好きな人がいるんだ」
と。

犬飼は思わずコーヒー牛乳を持った手に力を入れた。危うく落としそうになったからだ。
もしかしたら握力の加減をミスして中身が少し飛び出ていたかもしれない。
「ずっと一緒にいたヤツでさ・・・最初気付いた時は自分でもビックリして」
「・・・」
なんの前触れも無く始まった告白に、口数の多い人間なら即座に
『ビックリしたのはオレのほうだ』と言ったに違いない。
犬飼だってそう思った。ビックリしていた。
でもそれを口に出すなんて思いもよらなくて、そんな様子に気付いていながら気にせず話す沢松の声は
悪びれてなく弱々しくもなく深刻さも孕んではいなくて、二人きりの部室によく響いた。
部活中、猿野や子津とのやり取りでよく聞くあの声。
それでも自分を連れ込んだ時の、普段は見せない強引さのせいで、沢松の様子が変だということは
混乱している犬飼にもなんとなく分かったけど。
「いや、本当・・・なんでかなぁ」
はぁ、と沢松は蛍光灯の並ぶ天井を仰いだ。
犬飼はというと、一文字に口を閉ざしたまま絶句している。
「それにしてもよ、男ならさ」
頭を正面に戻した沢松は、犬飼が何も言えないのをいいことに・・・
というか犬飼がそうなる事を最初から分かっていたかのようにどんどん話を続ける。
その語り口は相談というよりは相手のいる独り言に近かった。
犬飼は入ってきたその場から動けず半ば呆然とそれを見ているだけ。
話を聞くまでには、犬飼の意識はまだ整っていなかった・・・
もっとも整っていたところで気のきいた言葉なんて思いつかなかったけれど。
「・・・犬飼、座らない?」
犬飼は突然自分に向けられた言葉にびくりとする。
そんな様子を可笑しそうに見、沢松は冗談ぽく、別にお前のこと襲わないぜ?と言う。
「ただちょっと愚痴を聞いて欲しいだけ。駄目?」
申し訳なさそうに笑うその顔は、『聞き賃だ』と犬飼にコーヒー牛乳を渡した時と同じで、
それならオレはその分の働きをしないといけない。犬飼は単純にそう思った。
お座り、と自分の座る長椅子をペシペシ叩きながら笑う沢松に少しだけイラつきながらも黙って隣に腰を下ろす。


気を遣うほどの関わりが今も、そしてこれからも無いであろうという点で
沢松にとって犬飼は聞き役にはもってこいだったのかもしれない。
しかも口は堅いと来ている・・・といっても話す相手がいないというだけの話なのだが。
「何話してたっけ・・・あぁ、男なら好きな相手はこの手で幸せにしてやりたいと思うわけ、やっぱりさ」
逃げるタイミングを逃したのか、沢松のことが本気で心配になってきたのかは分からないが
話を聞いていくうちに犬飼の尻はすっかり長椅子にくっついてしまった。
「でも、それが無理だって最近、思い知らされてさ・・・」
そのまま腰をすえて話を聞いているうちに心は落ち着いてきて、
沢松がどういう意味の事を話しているのか理解も追いついてきて、犬飼はその顔から目を離せなくなった。
「キツイよなーそういうのって」
沢松が揚々と痛々しい話をするのを聞く犬飼の胸に、やっと戸惑い以外の気持ちが生まれ初める。
そうなる前に逃げ出すことも出来た。二人の間に特別な絆なんてない。恩もない。
聞き賃という名目で沢松に握らされたコーヒー牛乳を突っ返せば。
握られた手を無理にでも振り払えば。部室に入らなければ。
「自分じゃ、どうも出来ないんだから」
今からだって無言で立ち上がればいい。腹も減ったし部室の鍵は簡単に開けられる。
逃げ出すことよりも助けることの方がはるかに難しいことも、分かっていた。

『自分じゃ、どうも出来ないんだから』

沢松が自分でどうも出来ないことを、他人である犬飼がどうにかできるはずが無い。
混乱から冷め平静を取り戻しかけた胸に石を投げられたような気がした。
その時できた波紋が大きくなって心を揺さぶる。波紋が消えても、底にゴトンと落ちた石は残った。
ズキンと、痛むほどに重い石。



二人が並び座って、幾ばくかの時間が経った。
昼休み終了のチャイムが鳴らないので、まだ10分かそこらだろうが、
コーヒー牛乳は3分の2を残して手の中で温くなり始めている。
聞き賃としての対価が安いか高いかはまだわからないけれど、
事体がだんだん安いほうへと傾いてきているのは確実だ。
昼食抜きはほぼ決定な上、のんきにストローをすするような雰囲気ではなくなってきているのだから。
二人の空気が、重く湿っぽくなってきている。それは鈍感な犬飼にも痛いほど感じられた。
それでもまだ話を聞いていられるのは、沢松の語り口が相変わらずおどけたような軽いものだったからだ。

「オレ、男なのに男を好きになったんだよね」

重い空気とは裏腹に沢松は核心を突くその言葉を本当に軽く、なんでもないことのように言ったから、
犬飼もそれはなんでもないことだと思えた。
男が男を好きになってもいいと思った。人間が人間を好きになるのだから。
「その好きな相手には好きな女の子がいて、自分には到底幸せにすることなんてできないってわかってて」
犬飼は相変わらず無言だった。コーヒー牛乳を飲むのに、久しぶりに口を動かす。
コーヒー牛乳が外気とほぼ同じ温度になっているのを舌で確かめて、
それから三角形の相関図を頭の中に思い浮かべ自分の周りから当てはまるピースを探す。
一つは当然沢松・・・しかし残りの二つのうち一つを見つけたところで無性に腹が立ち、考えるのを止めた。
「それならせめて、その二人が一生幸せになってくれれば、と思うんだ。けど」
「・・・」
そこで沢松は言葉を区切り、初めてつらそうな・・・失恋した男に似つかわしい顔をした。
失恋した男には似つかわしいが、それは普段の沢松にはまったく似つかわしくない表情で、
犬飼は黙って表情の変化を見つめる。沢松はもとより慰めなど・・・相槌すら期待していない。
独り言を愚痴にするためにそこに誰かに居て欲しかっただけだった。
それは色恋沙汰には人一倍疎く、その対象となる女性全般が苦手な犬飼を聞き役に選んだことからも明らかだ・・・
といっても好きな相手が男ならその推定は成り立たないのだが。
それでも犬飼は苦手なりに沢松のために何かしてやりたいと強く願い、できる事を考えた。
一方で、傍に置くくせに頼らない沢松に腹が立った。それどころか甘い餌を与えられて、惨めだった。
「好きだって言えないのは、まだ我慢できた・・・けどっ・・・
 今までどおり、なんでもない風に、傍にいる、のがこんなに苦しい、なんて・・・」
話すのもつらそうな、それでも話さずにはいられない沢松の事を犬飼は慰めたかった。
どうして慰めたいのか?そう誰かに聞かれても『そう思ったから』としか答えられないのだが。
自分の気持ちはよく分からない。でも
『好きな相手はこの手で幸せにしてやりたいと思うわけ』
沢松のその気持ちを身を持って実感し、またそれが叶わない悔しさをも同時に体感した気がした。


「わ!?」





無意識に犬飼の右手は沢松の髪の結び目に触れていて、左手は背に回っていた。
慌てる沢松の声が耳を掠める。
「・・・ちょ、おい、犬飼?」
犬飼は手にしていたコーヒー牛乳の事も後先も考えず、沢松は拒むことすら忘れているような
互いに追いつかない思考の中で、抱き合っているという感触よりも互いの身体のぬくもりの方が強烈だった。
「い、ぬか・・」
「・・・頑張ったな」
慰めたいと思っていたのに、咄嗟に出てきたのは慰めの言葉じゃなかった。
「っ・・・ぅ」
「頑張った」
ぽんぽん、と頭を軽く叩いてやると、沢松は堪えきれず犬飼の肩に額を押し付けながら声を殺して泣いた。
犬飼の手から離れたコーヒー牛乳は二人の制服に見えない染みを作り、残りは床に落ちた。
茶色の水溜りが広がっていく中、制服越しの体温はとても熱く
外気と同じ温度のはずの液体の染みはとても冷たく感じたけれど、
そんなの気にするのはなんだかとてももったいないし、つまらないことに思えて二人は抱き合い続けた。
沢松が「ありがとう」と言うまで。
チャイムの音は聞こえたけれど、聞こえないふりをした。


少しだけ見えた自分の気持ちには、気付かないふりをしたかった。



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それからというもの犬飼は気軽に好物を口にできなくなった。
連休を待ち、染みが付いた学ランをクリーニングに出すまでは、かすかな甘い香りにすら悩まされる始末。
二人して同じ匂いをさせていることが周囲にバレないかとヒヤヒヤしたことだけは少し愉快だったが、
沢松はその時のことを蒸し返してほしくない様子で犬飼を見る。
言えない辛さ、今までどおり接する辛さ。犬飼はなぞるように沢松の痛みをそのまま感じた。
やっぱりあのコーヒー牛乳はあまりにも割に合わない対価だったし
もう一つもらった「ありがとう」の言葉も、利息にしかならない・・・と犬飼は思う。




だからといって上乗せを求めるだけの勇気は、まだ無いのだが。