何もしないまま消えていくのと、動いて終わらせてしまうのとどっちがマシなのだろうと考えた。
どうせ叶わない想いなら、苦しむ時間は短いほうがいいと思い至った。


この時期は人のめったに来ない進学指導室の片隅。
窓際のカーテンに絡まるように二人はもみ合っていた。
二人の動きと息にあわせて日光に照らされた埃が宙を舞う。
窓のサッシに押し付けられた背中に食い込んで痛いと、
辰羅川はさっきからそう訴えているが、それでも猿野は手の力を緩めようとしない。
まるで突き落とそうとしているように猿野は辰羅川の制服の肩を掴みぐいぐいと押し付ける。
自分を制するその力は絶大で強引で、その性急さは辰羅川をたじろがせた。
いいように自分の鉄拳制裁を受けていた彼が平時の彼だとして
今日の彼はなんなのだろう?どうして自分はこんな状況に追い込まれているのだろう?
「猿野くん!ふざけるのも大概になさい!」
とうとう耐えかねた辰羅川の怒号に猿野は悪びれた様子も無い。
「ふざけてなんか」
しゃあしゃあと言ってのけ、そこでいったん言葉を区切り
「ん・・・!?」
なんのためらいも無く唇を重ねてくる。
何も特別なことではないように、まるで名前を呼ぶように。
「さる・・・の、く」
「初めてだったろ?オレもだよ」
そう言って肩を押さえつけたまま俯いたの猿野の表情は、前髪に隠れて辰羅川からは見えない。
表情が見えないから、その意図も。意図が分からないから、行動の理由も。
「猿野くん。なんのつもりですか」
「・・・」
心中とは裏腹に辰羅川の口調は鷹揚だった。
しかしその抑揚のなさはかえって猿野に辰羅川の尋常じゃない怒りを感させる。
大声を張り上げるのではない、淡々として冷ややかな怒り。
そんな辰羅川の怒り方を初めて見て猿野は、本気だな、と感じた。
それと同時に自分は今まで辰羅川を本気で怒らせたことはなかったのかと、少し意外にも思う。
・・・あれだけちょっかい出してきたのに、本気にもさせられてなかったのか。
でも今日のはちょっと冷たい感じ。いつものツッコミはもっとあたたかい。
本気だと冷たいのか、あぁコレが嫌われるというコトか。
「聞いてますか猿野くん」
「・・・」
猿野が少しだけ顔を上げて、その口元が辰羅川にちらりと見えた。
笑っても、唇を噛んでもいない。白痴のように少し開いている口から舌が覗いている。
「答えなさい」
それを無視して猿野は少しだけ手をずらし、首筋のタオルを剥ぎ取った。
服を脱がせたわけでもないのに、それだけで無防備さや無力さが際立った気がする。
「猿野くん!ちょっと、ねぇ!」
この先を予感したのか、辰羅川は声を張り上げた。
しかしその声は理路整然と並んだ本棚に吸い込まれるように消える。
「・・・それが貴方の本性ですか」
猿野には、聞こえているけど届かない。
タオルを床に落とした手はそのまま辰羅川の股間に移動した。
掌で包むように撫で上げ、微妙な指の動きで刺激を与えていく。
「や、ちょっと!猿、野く」
辰羅川の腕は猿野の身体を突き放す前に2人の身体の間に折りたたまれてしまって動かせない。
猿野は空いている方の手で辰羅川の髪をすいた。
「・・・ッ!」
唇はタオルを剥ぎあらわになった首筋に寄せられている。舌が這う感触。
汗ばんだ背中に悪寒が走るのを感じた。


「あぁ・・・っ」
とうとう漏れそうになった声を掻き消してくれたかのように、
ガラ、とドアが開く音と聞き覚えのある声が辰羅川の耳に届いた。
「おーい天国ー!さっさと帰・・・」
世界が反転した。そう思わせるほどに安穏な声と空気が埃の舞う教室に流れ込む。
それをもたらした猿野の友人、辰羅川にとってその程度の認識しかない『彼』は
現状を見て、引きつった笑いを浮かべて立ち尽くしている。
「・・・お邪魔だったかな?」
「沢松」
振り返った猿野と辰羅川の身体の間に少し距離が出来た。
すかさず辰羅川は腕を突っぱね猿野を突き飛ばした。
机や椅子にぶつかり派手に音をたてひっくり返った猿野にはもちろん見向きもせず
立ち尽くす沢松にぶつかっても謝る余裕すらなく、辰羅川は教室を出て行った。


「・・・マズかったか?」
バタバタと遠ざかっていく足音が完璧に消えるのを待って沢松は猿野に手を差し伸べた。
尻餅をついていた猿野は沢松の手を借りて立ち上がり、ズボンについた埃をパンパンと払う。
「いんや、モミーは助かったんじゃねぇの?オレにヤラれそうだったんだから」
「吹いてんじゃねぇよ天国」
沢松は猿野の身体に当たってずれた机を直しながら言った。
あえて猿野の方を見ようとはしない。
「ご丁寧に居場所メールしといて、しかも」
「・・・」
「手ぇ震えてんぞ」
「・・・ハッ、オマエには敵わんな」
「無理してんじゃねぇよ・・・ったく」
「ナハハ、そーだな。ガラじゃないよなぁ」
力なく笑う猿野の声を聞き、沢松はため息をつき頭を掻いた。
後悔と、それ以上に自嘲がにじみ出ているのを感じたからだ。
「なんか進展はあったか?」
「ん?あぁ、嫌われちまった・・・かな」
「・・・そっか」
馬鹿だよなぁお前、という沢松の呆れとも嘆きとも取れる声音を聞き流し
猿野はまだ震えている自分の手を表情の無い眼で見つめている。
「自ら壊さなくちゃならんくらいに、その恋は絶望的なもんだったかよ?」
猿野はそれには答えない。かわりに独白のように呟く。
「オレはどうしたって近付きたいって思っちまうから
 あっちから遠ざかっていってくれればいいと思ったんだが・・・」
「天国・・・」
「オレは辰羅川に絶対幸せになって欲しいと思ってるけど
 それがもしオレ以外のヤツの隣でなら、それをめちゃめちゃに踏みにじってやりたくもなる。
 ・・・本当のオレってどっちなんだろな」
震えのおさまった手をぐっと閉じてみる。
短く切りそろえた爪は自分の掌を傷つけることは無かったが
そうやって出来た拳は、何かをめちゃくちゃに壊してしまえるような気がした。
「少なくとも」
沢松がきつく握り締められた猿野の拳をそっと、自分の手で包む。
「お前は好きなヤツの不幸を願うような人間じゃねぇよ」
でも願わなくても不幸にしちまう場合もあることを忘れるなよ。
そう付け加えて、沢松の手は離された。