いつもより少し風が強い、春の日だった。


たまたま辰羅川が立っていたのが風の吹き溜まりであったこと。
そこがグラウンドの隅だったこと。
いつも隣にいる犬飼の姿が、今日はなかったこと。
そして、その姿を猿野が密かに見ていたこと。
そんな小さな偶然と必然・・・
どれか一つでも欠けていたなら、それは日常の
特別記憶にも残らない、そんな些細な出来事でしかなかっただろう。
すべてがキチンとそろってしまった、その上そこに一際強い風が吹いて
事態はまるで吹き飛ばされた桜の花びらのようにぶわっと一気に動いたのだった。



巻き上がった砂埃が目に入った、ただそれだけのことだったのに。



肌にぶつかる砂の感触とちくりという目の痛み、
辰羅川はとっさに目を閉じたが間に合わなかった。
風が治まるのを待ってメガネを外し下を向き、
2・3度まばたきをして目頭をそっと押さえる。
ちくりちくりという痛みと、異物を排出するための涙が少し。
ぼやけた足元には散ったばかりの桜の花びらが巻くように舞っている。
もう一度強く吹いた風をやり過ごし、顔を上げようとしたとき
風以外にその腕を引っ張るものがあった。
「・・・?」
メガネをかけながらその引力の正体を確認すると、
目の前には何やら心配そうな猿野の顔がある。
「な、い・・・」
何か言いかけ口をつぐみ、その表情がゆがんだかと思うと
涙とは違う理由で視界がぼやけた。猿野に、かけたばかりのメガネを外されたのだ。
「さ−−
次の瞬間に猿野の名を呼ぼうとした辰羅川の唇は猿野の唇でふさがれた。
ほんの一瞬だけのキスの後、抵抗の隙も与えず唇と腕は離れていく。
近すぎて逆に見えなかった猿野の顔との距離が適度になりピントが合って
しだいに遠ざかるとまたぼやけた。

不意打ちも不意打ち。

怒りも忘れてあっけに取られている辰羅川の、ぼやけた視界の中で猿野は
奪った辰羅川のメガネをかけ赤い頬と目を隠し、眉間にしわをつくって無理に笑った。
「泣いてると思った」
そう言う猿野が、泣いている。
辰羅川は驚きに突き放されて他の感情が付いてこない。
「目にごみが入っただけです」
「・・・ん」
「目にごみが入っただけなんですよ?」
「・・・うん」
辰羅川にとってモノをを明瞭に見るためのメガネが
今の猿野にとっては逆に、視界をぼやけさせる手段でしかない。
そしてそれは辰羅川の視線を防ぐ脆い防弾ガラスでもある。


辰羅川はメガネを返してくださいと言えなかった。

お互いに今の表情を見せ合うことは、できそうになかったから。