いつも二人でいた。 物心ついたときから沢松が隣にいて、それが当たり前だった。 当たり前だったのに・・・ 野球部に入部して激変した日常を慌ただしく過ごす日々は以前とは比べ物にならないほど大変だけど、充実していた。 朝練、眠たすぎる授業、放課後遅くまで続くハードな部活・・・忙しいという言葉だけじゃ全然足りない。 それっぽっちの一言で表すには、あまりにいろんなことが詰め込まれた濃密な時間だったからだ。 猿野はその中で沢山のものを手に入れた、けれどそんな濃密さとは逆に薄れていったものもある。 自分の中で失われていく何か・・・最初は『妙な感じ』としか言いようがなかったそれは今、確かな感覚になって猿野の中にあった。 確信とまではいかない、おぼろ気ながらソレに気付いたのは伊豆での合宿が終わった辺り・・・ その『妙な感じ』は言葉にして説明できる類のものではなかったが、あえて言葉で表すならばある種の『違和感』。 その違和感は突然というよりは少しずつ、慌ただしさを隠れ蓑にじわりじわりと猿野の日常を蝕んでいて、 いつの間にか大きな虫食いの穴を作っていた。その穴に消えたのは、今まで隣に居た存在である。 猿野がそんな精神的不安を誰にも相談できなかったのは、 その感覚を上手く言葉で説明できなかったからだけじゃない。 こんな時一番に相談するはずの相手こそが、この妙な感じの原因だったからだ。 濃密な毎日とは逆に薄れていったもの・・・それは沢松との関係だった。 猿野は沢松の存在をしっかり感じられなくなってしまっている。 それは部活が忙しく時間がなくて付き合いがなくなったとか、そういうことではなく、 猿野の中から沢松がゆっくり薄くなって、消えてくような感覚。 初めはそんなに意識していなかった・・・というよりは慌ただしく過ぎる毎日と過酷な練習に必死で気に留めもしなかった。 もともと野球に関してはまったくのド素人でしかない猿野は、経験者ばかりの十二支野球部の中で自分の事に精一杯だったのだ。 ただ自分ひとりが忙しいから昔ほど一緒にツルんだりできてないよな、とは感じていて、 それに一抹の寂しさと沢松への申し訳なさがあっただけ。 沢松が猿野に合わせるように報道部に入部したのはそんな時である。 伊豆の合宿先にいきなり報道部として現れた沢松は、報道部の役目もそこそこに 取材そっちのけで夜中まで練習に付き合ってくれて・・・その時の猿野は驚きと嬉しさがが同時に押し寄せてきて、 そこまでしてくれる沢松に柄にもなく感謝したりしていた。 そんな感情、表には決して出さなかったけど。物心ついた頃からずーっと腐れ縁の沢松に今更礼をいう事なんて 照れ臭くて考えられなかったからだ。 しかしそれはお互い様だった。沢松もはっきりと猿野のためだとは言わなかったのだから。 猿野は沢松のそんな態度を自分と同じ照れ隠しだと思っていたが、違和感を感じ始めた今になって疑ってしまう。 妙な言い方だが、沢松は自ら『役割』を作ってオレの隣にいたんじゃないのか?と。 報道部という与えられた『役割』の中に沢松は存在している。 伊豆での合宿を終えて、地獄のロードを終えて、いつの間にか猿野の傍にいるのは 『鬼ダチの沢松』でなく『報道部の沢松健吾』になっていた。 入部して初めての公式戦が近付いてきた今、その『妙な感じ』は違和感に、違和感は不安へと変わる。どんどん確かな方向へと進む。 部活をしている時、特別意識しなければもう本当に沢松の存在は意識から消えていて・・・ たまに意図的にフェンスの向こうを見ると、カメラを片手に練習の様子を見ている沢松の姿が小さく見えるだけ。 沢松に会わない日もあった。猿野が部活をしていて沢松が取材してることはあったかもしれないが、猿野の印象には残るほど喋っていない。 そんな経験が合宿が終わった辺りから感じてる不安を確かなものにしていく。『鬼ダチの沢松』がいなくなる。 しかし凪と剣菱とのことで野球部を辞め、そして戻るために部室を掃除した時、部活のない放課後・・・沢松は確かに猿野の隣にいた。 野球部員じゃない猿野の隣には、沢松は自然に存在できる。でも野球部員の猿野の隣には・・・? 「お前の居場所を見つけたって事だよ」 その居場所に、沢松は存在できないのかもしれない。 猿野が野球部としての自分を作り上げていくにつれて、沢松の存在が希薄になっていく。 猿野はそんなこと半信半疑であったのだけれど、そうとしか思えないことが多すぎた。 確かめるのは怖かった・・・でも確かめずにはいられなかった。 このままじゃ本当に沢松が自然消滅するんじゃないかと思ったからだ。 恋人同士が遠距離恋愛になって自然と別れるとか・・・そんな生易しいものではなく、 沢松がこの世界から消えて、それに自分も他の誰も気付かない・・・そんな状態が起こるんじゃないか?と。 「どうしたんだよ、いきなりこんなトコ連れてきて」 放課後、いつもはそのまま一緒に部活に向かうところを今日は屋上に連れ出した。 初めての公式戦が近付いている時の大事な時期などという考えは最初から猿野の頭には無く、部活は当然サボるつもりだった。 今は大好きな人のために頑張っている野球よりも、沢松を繋ぎ止める事の方が大事だったからだ。 例えそれが馬鹿な妄想だったとしても、たまには沢松と一緒にいてもいいだろう・・・それくらいには、猿野は沢松を想っている。 そして巻き添えで部活をサボった形の沢松の表情も、どこか嬉しそうだった。 夏に差し掛かる手前のこの季節は風も空の色も優しく、太陽と雲は互いに遠慮しているようだ。 影は薄く灰色の地面に移りこんでいる。 「お前、部活はいいのかよ」 グラウンドにトンボや野球用具を持って集まり始めた一年生部員を事故防止用のフェンス越しに見ながら沢松は言った。 長い髪が風に揺れるその様子は綺麗だけどどこか作り物めいていて、猿野の不安を煽る。 思い返してみるとこんな風にじっと沢松を見つめたことなど久しく無かったのだと気付いて、 今の状況も合わせてなんだか泣きたくなってしまった。 子供の頃から一緒にいたのにな・・・猿野のその思いはやがて別の意味になる。 子供の頃から一緒にいたのに、どうしてオレ達はこんな事に? 片方の手をフェンスに引っ掛けたまま猿野に向き直って沢松は 「せっかく高校球児らしくなってきたと思ってたのに、もうサボりかよ」 自分の事を棚に上げて、しょうがねぇなぁと笑った。 まるで沢松自身が報道部をサボることなんて、たいして重要じゃないという風に。 今こうして猿野の傍にいることの方が重要だというように。 「で、部活サボってまでこんなトコ呼び出して何のつもりだよ?まさか愛の告白ってんじゃねーだろうな?」 「それに近いかもな」 思いがけない言葉が返ってきて、しかもその声には冗談のような響きがなくて・・・ 日差しも風も強くないのに目を細めている猿野を見て逆に目を見開いた。 そして、なんだよそれ、と苦笑いの表情を作る。かしゃん、かしゃん・・・沢松の手がフェンスを滑っていってだらりと落ちた。 「そんなギャグ部活サボってまでいうコトか?部活始まる前とか、終わった後じゃ駄目だったのかよ」 「部活に出てたんじゃ、他のヤツらが一緒にいるし」 「・・・」 沢松は何も言わないままフェンスに乱暴に身体を預ける。 がしゃん、とそれ受け止めたフェンスが不満をぶちまけるように鳴った。 「逆に野球してないオレは大体、沢松と一緒に居ることになってるからな」 そこで初めて沢松の表情が凍りついた。 「沢松、オレは・・・お前がいなくなるのはいやだ」 沢松は無言で聞いていた。いつも何かしら相槌やツッコミをする沢松のそんな様子を見て 半信半疑だった予感がどんどん確信に変わっていく。 「・・・気付いたのか」 そしてその予感は、沢松によってあっさりと肯定されてしまった。 言い訳も、慌てた様子すらなかった。まるでその仕組みを最初から知っていたかのように沢松は言う。 猿野がそれに気づく予感すらあったかのように、その声音には諦めが滲んでいた。 それでも猿野が絶望しなかったのは、沢松に少しも動揺する素振りが無かったからだ。 「あぁ、まぁ・・・半信半疑だったけど、今のお前の反応で確信したよ」 「そっか・・・」 腰に両手を当て、呟いた。そこでさぁっと風が一陣・・・猿野はその風の音で沢松の声がかき消される事を恐れたが 沢松は風が止むのを待って続きを言ってくれた。猿野がそう望んだから。 「オレは、そろそろ消えちまうか」 猿野は俯いた。視界はコンクリートの地面と汚れた上履きだけを映している。 それでも近くに沢松の存在感をいやというほど感じている。そしてそれがもうすぐ消えるだろうということも。 「意味が・・・わかんねぇよ・・・なんで」 「だってこの『世界』の主人公はお前だから」 「・・・世界?」 「お前を中心に回る世界、その中でオレの役名は『鬼ダチ』。存在意義は野球部の天国を助けること」 独り言のように、与えられたセリフのように呟く。 「練習に付き合ったりしないとオレは、この『世界』に存在できなくなる」 猿野が野球部に入り、必死に練習についていく・・・沢松もそれに『合わせるように』全力で猿野を応援していた。 合わせていたのだ。この『世界』の主人公である猿野に。沢松はそういう風に作られていた。 「オレはそういう風に出来てるから。だから続いていく『世界』の中でお前が立派になればなるほど、オレの出番は無くなる。 その他大勢の一人になる。でもそれでよかったんだ。オレはお前を本当に応援しているから」 お前が立派になるのがうれしい。沢松は言った。いつものキャラとは違う殊勝な声だったが、それが沢松の本音なのだろう。 「でもオレは・・・お前が思ってる以上に、お前がいなくちゃ駄目だぞ?」 猿野はもう、涙声で・・・ 「・・・そんなこと、言うなよ」 沢松はそこで初めて寂しそうな顔になった。自分の存在を否定された時にも見せなかった表情・・・ それでもそれは、次の瞬間には笑顔になって。 「お前が野球部員として立派になりすぎたんだよバーカ!」 「・・・じゃあ」 オレが野球を辞めれば・・・?猿野はそれを言わなかった。そんなこと、無理だって分かり切っていたから。 出来上がった物語のページをめくり戻してもストーリーは変わらない。 「心配すんな。別にオレ達の関係は変わんねーよ。ただ、今までよりも一緒にいれなくなるだけだ。 オレはお前の世界からは外されちまった。野球ができないオレはもう当たり前に隣にいることは出来ないけれど ボケだら全力でツッコむし、お前が必要と思うならいつでも呼べばいい。『世界』の終わりには絶対に駆けつける」 『世界』の終わり・・・猿野はそれの意味するところを考えるが、結局解らなかった。 きっと自分の考えの及ばないところで動く何かだろう。たとえばそれは神様の、そのまた上の存在の決めることだ。 「オレは『世界』の中では脇役だけど、お前の唯一の理解者のつもりだ。 この『世界』の主人公はお前だから、お前がオレを必要としてくれたなら、いつでも出てくるから」 出番くれよ、と沢松は言った。それは「辛かったらいつでもオレを頼れよ」ということだ。 言葉にしなくても解る。沢松は猿野の誰よりの理解者だし、沢松のこと全部知ってるのも・・・沢松の言葉を借りるなら 『世界』中で猿野だけだったから。 「でもお前が気付くなんて予定外だ。このままオレは、どんどん出番が減って消えてくはずだったのに・・・天国お前」 「・・・」 「本当に、オレのこと好きだったんだな」 「――っ」 反論なのか肯定なのかそれを決める前に出かけた言葉・・・それをさえぎったのは 下から聞こえた、部活の始まりを告げる号令だった。沢松はフェンス越しにグラウンドを見下ろし、行けよ、言った。 「お前が野球やってねぇと話がすすまないんだよ」 猿野は頷く。 「・・・試合、観に来いよな」 「あたりめーだろ!数少ないオレの出番だ」 その冗談に猿野も笑う。 オレ様の活躍で、お前の出番なんて1コマも無いぜ、と言って校舎へ繋がるドアへ向かった。 「ハハッ、期待してるぜー主人公」 手でメガホンを作って、その背中を見送る沢松。 挿話の終わり。そして今また動き出した物語は、きっと素晴らしき世界を語る。