月が綺麗に輝く夜は一際寒いと、今朝のニュースでお天気お姉さんが言っていた。
虎鉄がその話をしっかりと覚えていたのはそのお姉さんが美人だったからというしょうもない理由であったのだが、
今それを思い出したのは、部活を終えた身体でそれが本当だと体感したからだ。寒い。そして綺麗。
星はよく見えないくせに月はハッキリとまん丸なかたちで浮かんでいて、まるで黒の空に白い穴が開いているようだ。
それは普段月なんてなんとも思わない虎鉄でもちょっと、おぉ、と思ってしまうような存在感を放っていて
明るさなどは街灯にも負けていないのではないのだろうか・・・と思う。比べるにはスケールが桁違いだけれども。
そんな事をつらつら考えながら帰宅しようと校門へ向かっていた虎鉄の足がピタリと止まったのは
校門の前で街灯に照らされ、暗い中その姿をぽっかり浮かばせている沢松を見たからだった。
いや、ただ見ただけならば、きっと歩みはそのまま再開された。
ほとんど反射的に足を止めてしまったのは、マフラーを口の辺りまで引き上げ
コートのポケットに両手を突っ込んで立つ沢松のその姿が、寒さよりも寂しさを感じさせたから。
そんな雰囲気をまといながらぼんやりと前を見ている。校門を出てくる野球部員の中には知った顔もあるだろうに挨拶もしない。
野球部員もまるでそこに誰もいないかのように通り過ぎていくが、虎鉄にとってだけ、その存在感は今日の月以上だった。
少し迷ったけれど虎鉄は結局もと来た道を引き返し、生徒玄関をくぐり、
履いたばかりのスニーカーを脱ぎ、脱いだばかりの上履きをつっかけた。
蛍光灯に照らされた廊下を歩く。きゅっきゅっと靴底のゴムと廊下の擦れる音が響くくらい静かだった。
やがてその音は購買の前に差し掛かったところで止まる。
自動販売機の前に立ち、まだ販売中のランプが灯っている事に安堵しながら財布を取り出す。
500円玉を投入した後、入学したころからほとんど変わらないラインナップを一通り眺めて
人差し指が止まったのは、いつも飲むお汁粉の缶の上のボタンだった。


「沢松」
「あ・・・」
思いがけない人物に声をかけられて少し戸惑ったような沢松を見て、虎鉄も戸惑ってしまった。
「お疲れ様です虎鉄先輩」
「・・・誰か待ってるのKa」
「あ・・・まぁ、はい」
見ればわかる事を聞いてしまったのは、どんどん話をしないと間がもたないと思ったから。
沢松がこの時間まで待つ人物など、虎鉄には1人しか思い浮かばなかった。
「天国を」
一緒に部活が終わっても、着替えとか後始末がない分オレのほうが少し早いんすよね・・・
そう言いながら沢松は赤い鼻をして愛想のいい笑顔を見せる。
しかし虎鉄には沢松が『少し』待っているだけとは思えなかった。
それにいくら一年生でも、もう後始末も着替えも終わっていていい時間だ。
現に虎鉄は自分が部室を出るのと入れ違いに入っていく一年生を見たし、その中には猿野もいた。
こうして二人が向き合っている間にも野球部の一年生が数人、挨拶と共に校門を抜けていく。
虎鉄先輩お疲れ様っす。お疲れ様です、お疲れ様でした!
次々来る後輩に適当な挨拶を返しながら虎鉄は、沢松はこいつらをどういう気持ちで見ているのだろうと思う。
その中に待ち人である猿野の姿は見えない。そして生徒玄関の方にも一向に現れない。
一通り後輩を見送ったあと虎鉄は沢松を振り返って、なぁ、と声をかけた。
それに、はい、と素直に返事をした沢松は体育会系の先輩後輩のやりとりを観察していたという風で、
猿野の現れないことなど特になんとも思っていないようだった。そう見えるだけかもしれないが。
「寒いKa?」
「まぁ・・・冬はみんな寒いと思いますよ」
回りくどい肯定をした沢松に、じゃあ・・・これやるYo と、
虎鉄は今思い出したように装いながらカバンに入れていたコーヒーを差し出した。
「え、なんで」
しかし沢松は遠慮からか、困ったような顔をしてなかなかそれを受け取ろうとはしなかった。
「寒いんだRo」
「でも・・・」
言いよどんだ後も視線はしばらくコーヒーと虎鉄の顔を行ったり来たりしていたが、虎鉄がそれ以上何も言わないのを見て
観念したようにポケットから手を出してそれを受け取り、缶を包み込むように持った。
あったけー、と、強張っていた顔がほっと弛んでいく。そうしてハッとしたように、お金!とカバンをまさぐり始めた。
「いらねーYo 間違って買ったんDa」
そんな沢松をあえて見ないようにして、虎鉄がカバンからお汁粉を取り出してさっさとプルタブを引くと
沢松はやっと諦めたように手を止めた。
「じゃあ今度の十二支スポーツ、先輩のこと良く書いときます」
冗談めかしてプルタブを引く。
「おう、頼むZe」
一方虎鉄の返事は気の無いものだった。
梅星と同じクラスの虎鉄には、下っ端の沢松にそんな権限などないと知っている。
もちろんそれが冗談だということも解っている。それでもそういう風に言われたことは少し辛かった。
借りを返してもらおうなんて思っていないのに、と。



「あの・・・」
並んで立っているのに会話も無くただひたすら自分たちの缶をすする中で、先に根負けしたのは沢松の方だった。
「帰らないんですか?」
居心地が悪そうで、遠慮がちな声だった。
まぁしょうがないKa・・・と虎鉄は思う。自分は沢松にとって、友人の先輩でしかないのだから。
しかし虎鉄は沢松のことを、ただの後輩の友人だとは思っていない。
「・・・これ飲んだら帰るYo」
「なんでここで飲むんですか?」
「飲み歩きはしない主義なんDa。お前こそなんでここで待つんだYo」
せめて生徒玄関にいればここよりは寒くないだRo・・・さっきからそう言いたくてしょうがない。
「それは―
沢松の言葉の途中で生徒玄関の方が慌ただしくなった。それに気付いて振り返ったのは二人同時だった。
騒がしい猿野の声が二人のいるところまで聞こえ、それに混じって他の野球部員の声が聞こえる。
兎丸の声が聞こえ、猿野の大きな声が聞こえ・・・少しの間は犬飼がなにかボソリと突っ込んだのだろう。
それから一際大きな猿野の声、それをいさめる子津と辰羅川の声・・・このメンバーなら司馬もいるんだろう・・・。
それがどんどん近付いてくるのを感じながら虎鉄は残念なような、ほっとしたような気持ちになった。
もうすぐ沢松もあの中に加わる・・・
「!?」
そう思ったとき急に腕を引っ張られて、虎鉄は危うく道路にひっくり返るところだった。
お汁粉はちょっとこぼれた。
「ちょ、なんだYo!」
沢松は何も答えず、虎鉄が持ち前の運動神経と柔軟性で転倒の危機を回避した後も
普段からは想像も付かない強引さと力でぐいぐいと自転車置き場の方へ引っ張っていく。
虎鉄には沢松が逃げているように思われたけど、待ち人の現れたのにそこから逃げる理由なんて思いつかず、
自分をそれに付き合わせる理由もまったく分からなかった。

校門が見えないところまで来て、沢松はようやく虎鉄の腕を離した。
怪訝そうに・・・内心は凄まじく動揺しながら自分を見る虎鉄のことなどお構い無しで沢松は
必死に校門の方へ聞き耳を立てている。全身で猿野たちの気配を感じようとしている。
「・・・行っちまうZe」
沢松は応えなかった。
そうしている間にも騒がしい声はどんどん遠ざかっていき、猿野は談笑しながら校門をくぐってしまう。
そこに自分を待っていた人物がいたことなど気付きもせずに。
虎鉄はそれに無性に腹が立った。そして同時に沢松が自分を一緒に連れてきた理由も悟った。
雪の無い冷えただけのアスファルトに、沢松がいた痕跡など残るはずも無い。
それを語る自分さえ居なければ・・・ようするに証拠隠滅だったのだ。でも。
「どうしたんDa?」
長い間待っていたのにどうして猿野から逃げ出したのか、それは分からなかった。
「猿野を待ってたんじゃないのKa」
「まぁ・・・待ってたんですけど」
「行っちまったZe」
「・・・だって野球部の連中と一緒みたいだし」
あいつらと帰るでしょ、と沢松はコーヒーを一口飲んだ。
それで沢松は猿野から逃げたのではなく、猿野『たち』から逃げたのだと悟る。
「一緒に帰ればいいだRo」
「・・・そうなんでしょうけど、ね」
沢松は言葉を濁すと、行き場の無い視線をコーヒーの飲み口に落とした。
「それが嫌なら、待ってるってメールでもしときゃいいだRo」
「それだと天国と一緒に帰りたいみたいじゃないですか」
「帰りたいんだRo」
「・・・そうなんですけど」
なんかうまくいかないもんですねー、と沢松は笑った。
「いつも自然に一緒に帰ってたのに、今更メールなんかしたら変じゃないですか」
「別に変じゃないと思うZe」
「・・・」
「そうじゃないだRo 沢松」
「・・・虎鉄先輩って」
困ったように、また笑う。
「乙女心とか分かってるけど分かってないですよね」
「お前、乙女心なんて持ってるのKa?」
「はは、あんまいじめないでくださいよ」
作り笑いと知れる声で笑って、こくり、と沢松はまたコーヒーを飲む。喉がなるのが分かるほどに辺りは静かだった。
虎鉄は、沢松が自分と目を合わせたがらないのを見て、沢松のために買ってきたコーヒーが
いつの間にか間をもたすための小道具になってしまっていることに気付く。
そんな事のために買ったのではないのに。自分の持っているお汁粉も缶の中でただ温度を下げていくだけだ。
「・・・前はマジ当たり前に・・・二人で帰ってたんすよオレたち」
沢松は俯き気味だった顔を少し上げて呟いた。その表情は穏やかで・・・それは心情とはまるっきり逆のはずで滑稽ですらある。
そんな表情から白い息が月夜に放たれ霧散して、空に消える様子がグラウンドを照らすライトでハッキリと虎鉄の眼に映った。
喋る沢松の顔、その表情までも。
「だから今更メールなんてしたら・・・離れたこと認めるのと同じだと思って・・・それが、怖いんだと思います」
穏やかだった顔がそこでやっと歪んだ。
それは辛そうというよりは内に押さえつけていた感情が、手違いで溢れてしまったような顔だ。
それを嬉しいと感じてしまった虎鉄は自分に嫌悪し、なぜ笑顔よりもそんな顔の方が嬉しいのかと疑問に思う。
好きな人なのに。それとも好きな人だからか。好きな人が、初めて自分に本心を吐露してくれた瞬間だからか。
「・・・そうだよNa」
「ね、うまくいかないでしょ」
「そうだNa」
それでも優しく慰められないのは、沢松がそれをまったく気にしていないみたいに振舞っているから。
気付かないふりをしなければいけないのだろう。それがこの場合、思いやりというものなんだろう。
本当は優しくしたいのに。抱きしめるとかそういうことじゃなくて、もっと温かくしてやりたいのに。
「・・・本当に、うまくいかねーNa」
沢松が何も残さず猿野の前から立ち去ったのを見た。だから自分も何も残さず沢松の前から立ち去らなければ。
でも、ここまで聞き出してしまった責任も取りたいと思う。
どうすればいいのだろう・・・その答えが出ることはなく、沢松にかける言葉の続きも失われてしまった。

再び会話が無くなり、虎鉄は思い出したようにお汁粉を一口飲む。
ぬるいけれど心地よい甘みが口内に広って、それから唐突に沢松へ買ってきたコーヒーがブラックであった事を思い出した。
なんとなくイメージと、いつだったかそれを飲んでいたのを見た気がして買ったけれど、
今の沢松に必要なのはきっと苦さよりも甘さなのだと思う。
「・・・お前も飲むKa?」
「え?」
きょとんと自分を見つめる沢松に、虎鉄はお汁粉の缶を差し出した。
コーヒーを渡した時の上を行く強引さで。
「飲め」
「はぁ・・・」
沢松は素直にそれを受け取って、一口飲んだ。
「・・・う」
「美味いだRo」
得意げな虎鉄の言葉を肯定も否定もせず、沢松は歪んだ口を拭いながら黙って缶を返した。
気持ちがどっちに傾いているかはその態度でバレバレだったが。
「でも虎鉄先輩、そのわりに全然飲んでないですけど」
缶の重みを感じた沢松にそう言われて虎鉄はぎくりとする。

『これ飲んだら帰るYo 』

中身が減るにつれて一緒に居る時間も短くなっていくから・・・そんなの言えるはずがないし、
そんなことで沢松を引きとめる権利もないとわかっている。けれどお汁粉は減らなかった。
「胸焼けしてるんじゃないっすか?これあげましょうか?」
今度は沢松が虎鉄にコーヒーを差し出した。
「・・・いらねーYo 。それはお前に買ってきたんDa」
「あれ、間違って買ったって言ってませんでした?」
「・・・」
顔をゆがめた虎鉄を見て、沢松はそれ以上言及するのをやめた。
「・・・虎鉄先輩って意外と優しいですよね」
「意外と、は余計Da」
「男にも優しいのは意外だってことっすよ」
厳しいっすけどね・・・喋りたくないこと喋らされたし。沢松はほとんど缶を垂直にして最後の一口を喉に流し込んだ。
「でも」
はぁ、と白い息が散った。
「なんかスッキリしました」
吹っ切れたわけじゃないですけど。それでも沢松は晴れ晴れとした顔で笑っていて、虎鉄は逆に救われた気がした。
けれど、これからは虎鉄先輩のこと兄貴って呼ぼうかな・・・そんなことを言う沢松に兄貴らしいことなど言えなかった。
虎鉄がなりたいのは沢松の兄貴なんかじゃない。
「オレは、好きな相手には優しいんDa」
虎鉄の思い切ったその言葉の意味を沢松は深く考えず、ありがとうございますと言う。
それでもいいと、虎鉄は思った。だから一気にお汁粉を喉に流し込む。
飲み終わったら途中まででもいい。一緒に帰ろうと言うつもりだった。




自分の手で幸せにしてあげることはできない。それでも幸せであってほしいと願う人がいる。
その気持ちは冷めないまま、いつまでも心の底の方に残り続けるのだろう。甘く苦く。