気付けばオレは、夕暮れの道を歩いていた。
足は動いている。でもそれは意識的じゃない。
足だけが別の機械となってオレの体を運んでるみたいだ。
身に着けているのは背広に・・・ネクタイ?
なぜ自分がこんな格好でこんな場所にいるのかわからない。
でもこの道はよく知っている。
昔(なぜかオレの頭はこのとき無意識に『昔』という言葉を使った)何度も何度も通った道だ。
しっかり覚えてるこの景色、この角をまがれば見えるのは・・・

『猿野酒店』

天国の家だ。
眼がその文字を認識すると、足はいよいよ自動的にその看板に向かっていく。



看板の下で小さな女の子が一人、パステルか何かで道路に絵を描いている。
がりがりと、柔らかいモノがコンクリートに削られる音。
もうすぐ夕食の時間帯のはずなのに、オレの耳にはそのかすかな音しか聞こえない。
まるで世界に存在する音と言うものは、それが唯一であるかのように。

オレはその絵を覗き込んだ。
女の子が描いていたのは典型的な「子どもの絵」だった。
右にパパ、左にママ、そして真ん中にわたし。
ママはメガネをかけている。そしてパパの頭は、いが栗のような線をたくさん生やしていた。
オレは息を呑む。
そして、そんなオレを不思議そうに見上げた女の子の、その顔。

オレは真っ先に

『あぁ、天国に似なくて良かったな』

そう思った。
可愛らしい女の子。
ただ毛色だけは、今日の夕焼けに焼きこまれたような焦げ茶色だったが。


足が無意識にこの場所にオレを運んだのと同じように、
オレの目はオレの意思とは無関係にいつの間にか涙を流していた。
「おじさんだれ?」
石がこすれる音に、初めて他の音が加わる。
それは無彩色の石の中にパステルをくわえたような、愛らしい声。
「なんでないてるの?」
オレは涙を拭い、精一杯笑顔をつくって言った。
「パパとママは、優しいかい?」
その笑顔は無様にゆがんでいただろうけど、この子を騙せるくらいには、しっかりした声を出せていたはずだ。
「うんっ」
女の子は満面の笑みで答えてくれた。
「そりゃよかった・・・」
道路の落書きからそのまま写し取ったような笑顔。
子どもの描く絵ほど、写実的なものはないのかもしれない。
オレもつられて微笑み、もう一度その絵を見た。

幸せそうなパパとママ、そしてその間にわたし。
その中に一瞬でも自分の居場所を探したことをオレは悔いた。
そんなものあるはずない。
ママとわたしとパパ。それで完成された絵の中にも
目の前の女の子のこれ以上無いくらいに溶け合った二重螺旋の中にも。


「ねぇ・・・もしかしてむかしママのことすきだったひとですか」
なにか、不穏な空気を察したのだろう。
あるいは自分たちの幸福を壊そうとする侵入者の気配を。
いくらか強張ったその子の声に、絵から視線を戻したオレは黙って首を横に振った。
あの眼の色がオレを映している。
純粋なこの子には考えつきもしなかったのだろう。
オレが好きだったのはママの方じゃなくて・・・


焦げ茶色のパステルが、オレの心を塗りつぶす。

そのまま無言でたたずむ男に怖気づいたのか
女の子は店の中に引っ込んでしまった。
オレは「どっちか」に出くわす前に、その場所を離れた。
帰る場所の無い帰り道。
オレは背広の前を開けネクタイを緩めながら
この道が過去に続いていることだけを、ただただ願った。

あの女の子のしあわせよりも

好きな人の好きな人のしあわせよりも

未だ好きな人のしあわせよりも

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そこで目が覚めた。
起き上がると重力に従って髪が頬をかすめ、涙がシーツにこぼれた。
壁には学ランが掛かっている。
首に手を当てると、盛大に寝汗をかいていた。
涙が頬を濡らし続ける。
それはきっと、いつの日かやってくる未来を・・・
「今」という時間を積み重ねて出来上がるものを、一足先に見せられた気がしたから。


そうやって「今」が過去に変わってしまう時・・・
お前たちの幸せを、未来の(独りの?)オレは受け入れることができるのかな?


   
            
                                             


 
   

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本屋で見かけた文庫本のタイトルから連想して出来た話ですが・・・
もう沢松には謝るしかないよ・・・ごめんなさい。