後ろから抱きしめられた時、辰羅川は抵抗しなかった。 猿野の腕に力が込められてやっと、嫌悪よりも痛みが先にたって絡んだ腕を振り払う。 辰羅川がそのまま去り行こうとするのを、必死に繋ぎとめるように、猿野はその右手を掴んだ。 「なんでもっと早く抵抗しないんだよ」 自由な左手で少しずれたメガネを直すしぐさをする辰羅川は 「少し、考え事をしていたもので」 そう言って、抱きしめられたのを振り払った時以上の力でもって猿野を突き放した。 腕力の無い辰羅川にも、言葉でならそれができる。 猿野はそんな辰羅川を苦笑交じりに見、ぎゅっと一時右手を掴んだ手に力を込め、 それから空気が抜けるように離した。重力にしたがって滑り落ちる辰羅川の手。 「つめてぇ・・・」 俯き加減にポツリと呟く猿野の手を温かいと感じた自分の手は、 なるほど冷たいのだろう。と辰羅川はぼんやりとそんな見当違いなことを考えていた。 「犬飼くんが待ってますからこれで」 「・・・逃げ水みたい」 猿野にしては上手いたとえだと、辰羅川は思う。 最初から辰羅川の気持ちは猿野のところには無い 黒いアスファルトの上の逃げ水のように。 近づけば遠ざかる永遠に叶わない想いは、永遠に乾かない蜃気楼の輝きに似ていた。